では早速。
ゲームの達人
『スーパーマリオブラザーズ』のクリエイター、宮本茂は心の中は大きなテレビッ子
「『インディ・ジョーンズ レイダース 失われたアーク《聖櫃》
ハリウッドで最も力のある、このピーターパンたちは、心の中の子供ぶりと言ったら、彼らよりいっそ大きい、このひとりの男に敬意を表するために旅をしたのだ。宮本はなにしろ、この8年間で1億本を売り上げた、あの『スーパーマリオブラザーズ
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それゆえ、ディズニーがスーパーマリオブラザーズを映画化(訳注:『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』。1993年公開。Wikiipedia)したのは、当然の話だ。公開初週、子供たちは両親に連れられて、害のない800万ドルを支払い、ボブ・ホスキンス(マリオ役)とジョン・レグイザモ(ルイージ役)を励ました。マリオとルイージが、これすべて姫(サマンサ・マシス)を救うために、トンネルと土管の魅力的な地下世界をなんとかくぐり抜け、火の玉を飛び越え、龍から逃げおおせるのを応援するためにだ。宮本はこの映画を一度、観て、こう言っている。「100%は理解できなかったなあ。だって、英語だったから」。
宮本は、日本の会社の社員たちと同じように、マリオのゲームを作ったからと言って、ゲームからも、映画からも、弁当箱からも、シーツからも、玩具からも、ファーストフードとのタイアップからも、ほんの少しの妖精の粉(訳注:ティンカーベルなどが撒く魔法の粉)すら受け取ってはいない。そうして、宮本はこれでいいのである。「任天堂は僕にものを作らせてくれます。他のものは何も必要ないです」。宮本が繋ぎ止められている、バンジョー、マリオの玩具、ミッキーマウスの人形がところ狭しと並べられた京都のオフィスで、彼はそう言う。(彼は、老練のブルーグラスのミュージジャンであり、ビートルズの大ファンでもある)。ブルーブラネット・ソフトウェア社長、ヘンク・ロジャース(訳注:オランダ人ゲームデザイナー。テトリスの版権を管理)は、宮本をこう言っている。「彼は任天堂で特別な待遇は受けていないんですよ。でも、私に言わせれば、彼に必要なのは、肩にかけるマントだけです。宮本はスーパーヒーローですからね」。
宮本は、おおかたの日本の会社の幹部たちとは違って、紺のスーツの行動基準に従う必要はないが(彼はミッキーマウスの腕時計をつけ、頭はボサボサである)、いろいろな意味で、普通であることに満足気だ。彼は職場への1マイルもない道のりを自転車で通い、小さな5部屋の家で(彼は自分の家をウサギ小屋と読んでいる)元任天堂社員の妻のやすこ、7歳の息子と5歳の娘とともに暮らしているのである。
実際、マリオを創造した想像力は、彼のこうした環境から生まれ出ている。京都に育ち、英語教師の父と専業主婦の母に3人兄弟の一人として育てられた宮本は、(訳注:マンガを描きつづけるために)病気になって入院したいと夢見ていたが、現実は、止まることなくずっとマンガのキャラクターを描き続けていられるほど丈夫だったという。「一ヶ月でも、描きつづけられたでしょうねえ」。思い出に微笑しながら宮本はそう言う。彼の最初の恋は人形劇だったが、11歳のときに父親が家族のためにテレビを買い、彼は日本のアニメのスーパーヒーローのとりこになったのである。
1977年に金沢美術工芸大学を卒業後、24歳の宮本は、任天堂に初の社内アーティストとして採用された。任天堂は100年間、トランプを製造しつづけてきた会社だったが、ちょうどそのころテレビゲームという新しい市場に参入しようとしているところだった。大学時代、アーケードゲームが大好きだった宮本は、1981年までに『ドンキーコング
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その後、任天堂の社長が宮本に、次の大きな革新、ホーム・コンピュータ用にゲームを作るように言い、結果、1985年に、大きな鼻のマリオというキャラクターが登場した。これは、彼の子供時代の最も基礎的な感情から生まれている。宮本が言うには、このゲームの終わりなく次々に展開する通路は、彼の実家の襖の記憶に影響されたものであり、マリオの地下世界の謎につつまれた闇は、子供の頃、探検した洞穴の冷気から着想したのだという。「暗闇は、怖いし、感情を昂らせます。こういう恐怖が、発見の喜びの一部なんですね」と彼は言う。「なにかを発見する。これは、ある種の昂りをもたらすんです」。確かにそうだ。だが、宮本は、いまだにマリオの人気には戸惑っているようだ。「人はみな、マリオに似てるはずですよ。マリオは普通の男ですから」。
一日にたった2時間だけ任天堂のゲームで遊ぶことを許可されているという自分の子供に、宮本は決して彼のゲームのアイディアを試したりはしない。それは、まるで子供が子供に敬意を払うかのようにだ。「外が雨じゃない限りはね。雨だったら、もう少し長くゲームで遊ばせますが」。彼自身のジョイスティックの操作スキルについては、こう言う。「僕はたいがいの大人より上手いですよ。けど、子供たちに比べたら、平均的プレイヤーでしかありません」。だが、ゲームをインタラクティブ映像の次のレベルへと引き上げようとひたむきに挑戦している現在、もはや宮本に、ゲームに打ち込んだり、夢中になったり、むきになって得点する余裕はない。「月に2、3回ですよ。目が覚めると考えますから。今日こそは、マリオより良いものを作らなきゃって」。
すごく良い記事だなあ。読んでて楽しかったです。内容も焦点が合ってるし、良いとこ取りのうえに、過不足がない。さすが、People。人間を記事にさせたら天下一品でございます。
記事中にあったように、数千億円を稼ぎだしたマリオの産みの親が、5部屋しかない家に住んでいるというのは、世界基準で考えてみれば、確かに奇妙なことかもしれません。米国なら、とっくの昔に独立されて、ご自身が大会社の社長でしょう。けれど、逆に、そこにお金ではない大切なものがあるという一つの証明ではないかとも思います。
マイクロソフトがXBoxでゲーム業界に参入したとき、宮本茂を任天堂の十倍の年棒で引き抜こうとしたのは有名な話ですが、このときも宮本茂は「任天堂には仲間がいるから」という理由で断ったと伝えられています。
お金ではないのだというメッセージは古今、映画でも小説でも使い古された感すらありますが、宮本茂のように真にそういう生き方をしているかたを知ると、あるいは、こちらのほうが、ゲームで与える夢よりも、子供たちにとっては素晴らしい夢なんじゃないかなあと思ったりいたします。
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