2009年10月24日

五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その3 -

さて、五嶋みどりの1991年のNew York Times紙の記事、第3回です。本日はこちらの曲から↓。
スカラ座でのズービン・メータ指揮、スカラ・フィルハーモニー管弦楽団。プロコフィエフ、バイオリン協奏曲第2番、第三楽章。1993年か1994年(22-23歳)。なにか音楽の神霊がおりてる感じです。

スカラ座:イタリア、ミラノの歌劇場。イタリアオペラ界の最高峰。天井桟敷の客が大変に口うるさいことで有名。ここで手厳しいブーイングを受けて、舞台を降りたオペラ歌手もいるようです。

Midori Goto Prokofiev Conc. 2, mov III


以前の記事はこちら。
五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その1 -
五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その2 -


1982年には(訳注:10〜11歳)、Midoriはジュリアード音楽院のプレカレッジ科(訳注:大学入学前の年齢向けクラス)でディレイに付き、学びはじめていた。かつて母親とそうしたように、膨大な数のレパートリーを全速力で、しかも、すべて暗譜で駆け抜けた。

この時期、彼女は異国であるアメリカ文化に合わせるだけでなく、平日の通常の授業、土曜日のレッスン、毎日の練習、そうして、声がかかりはじめていたコンサートのスケジュールをもこなさねばならなかった。「とても大変でした。音楽学校も初めてだったし、先生についたのも初めて。それに、あんなにたくさんの子供たちがいるところにいたことがなかったから」。そう彼女は不安そうに微笑する。

1983年、彼女の父親(エンジニア)と母が離婚した年、Midoriは彼女の名前から姓を外した。私が父親のことを尋ねると、彼女はこともなげに認めた。「父とは近しい関係だったことはありません。本当に、よく知らないんです」。彼女の家族の激変にもかかわらず、Midoriの青春時代は、窮屈で、時間につねに追われたものではあったが、快適に過ぎていった。Midoriが苗字を嫌がっていたようには見えない。それは単に、メジャーなキャリアへの必要な道だったのだ。そうして、Midoriにとって、メジャーなキャリアはもうすぐ目の前に迫っていた。

1986年7月。タングルウッドのじめじめと暑いその夜。Midoriはレナード・バーンスタイン作曲の「セレナード」を、作曲者自らの指揮によるオーケストラと演奏していた。E線が切れたのは、突然だった。が、Midoriは平然と、コンサートマスターからバイオリンを借りて、演奏を続行する。しかし、再びE線は切れる。彼女は今度はアシスタント・コンサートマスターからバイオリンを借りて、演奏は途切れることなく完奏されたのである。どちらのバイオリンも、彼女自身が使っていたバイオリンより大きなサイズだったというのにだ(訳注:当時、体が小さかったために3/4サイズのバイオリンを使用)。

「終わったとき、観客も、オーケストラも、指揮者も、歓喜の声を上げ、足を踏み鳴らし、口笛を吹いて、拍手喝采だった」とNew York Times紙にジョン・ロックウェルは書いている。この記事は第一面に「14歳の少女、タングルウッドを3台のバイオリンで征服」という見出しで掲載された。Midori自身は、そのときの大騒動に戸惑っていた。「彼女には、この大騒ぎがいったいどうしたことか、わかっていませんでしたね」。Midoriのマネージャーであり、I.C.M. Artist社長、リー・ラモンはそう回想する。(タングルウッドの奇跡のエントリはこちら。)


五嶋みどり タングルウッドの奇跡



I.C.M.は、こうした大衆との繋がりがキャリアを形成していくことを知っていた。だが、次にI.C.M.がとった戦略は驚くべきものだった。タングルウッドの大騒動を利用するのではなく、事務所は逆に後ろに下がったのだ。「我々は、雑誌も、いかなるテレビ局も、どんなラジオ局もすべて断りました」とラモン。「騒ぎがすべて鎮まり、キャリア形成のために、次に来る安定期に備えたのです」。

Midoriの場合、キャリア形成は、注意深く、時間と手間をかけて行なわれた。「手始めは、とってもゆっくりとやりました。1シーズンに8〜10までの契約のみ。すべて、学習プロセスを増やすために選び抜いたものです」とラモンは回顧する。Midoriは「観客との対応のしかた、ステージへのあがりかた、さがりかた。旅のしかた。指揮者とのつきあいかた。オーケストラの聴きかた」を学ばねばならなかったのだ。

初期、Midoriはしばしば地方のオーケストラや夏の音楽祭で演奏した。これは、ほとんど、ニューヨークの人目にMidoriを晒させないためだった。今、彼女は年間約80公演のコンサートで弾く。すべてメジャーなオーケストラであり、メジャーな国際的舞台ばかりだ。

ラモンは言葉を計算しながらMidoriのキャリアについて語っているのかもしれないが、彼女はMidoriの道を指図することに成功していたわけではない。関係者すべてが同意するのは、かなり初期からMidoriは、彼女が出たい公演にだけ出ていたということだ。

この頑固な気質は、反抗期が来てますます高じて、1987年には表面化する。Midoriは15歳でジュリアード音楽院のディレイの元を去る決意をするのである。Midoriによれば、これは、母親もディレイも事務所も、……誰も賛同しない決別だったという。なぜ彼女は、将来的に見ても、これほど痛手の大きい決定をしたのだろうか。

この質問への答えは容易には引き出せない。「どうして私が去ったかですか?去る時期がきたと感じたからです」。Midoriは私たちの最初のインタビューではこう言うだけで、答えなかった。ディレイは擁護的に認める。「彼女が非常に忙しくなったということですよ」。彼女の旅立ちは早すぎたのではないのか?「一般論で言えば、学校を去るのは早かったと言うこともできるでしょう。でも、彼女の場合、他に選択肢があったとは私は思いません」。それはMidoriの決定だったのか?「いえ、彼女の母親の決定だと思います」。ラモンにいたっては、さらに答えは曖昧だった。「ノーコメント。もし本当になぜ彼女がジュリアードを去ったのかが知りたければ、彼女に聞いたほうがいいでしょう」と。



まずはドロシー・ディレイ。ドロシー・ディレイは五嶋みどりを大変に可愛がったようで、みなが受けられるわけではないディレイのレッスンを毎週受けさせたうえに、要人がジュリアード音楽院を視察にくるときなどは、みどりのレッスン予定を必ずその日に変えさせ、演奏を披露できるように調整したようです。まさに特別扱い。
ディレイとの決別は、公演先での手違いから、母親である節がジュリアード音楽院側から「金銭(ホテル代)の不正請求」を疑われたためと言われています。


デビューは11歳。ズービン・メータ指揮のニューク・フィルハーモニック。これもディレイの仲立ちによるもので、初めてみどりの演奏を聴いたときのことをメータは「あの子はなかば天才、なかば怪物だった」と語っています。「じっと下を向いて音楽に打ち込むこの小さな女の子は、クラシックの演奏曲目で最も難しい曲の1つであるバルトークの協奏曲にまるで虎のように食いついていった。伴奏者がリズムをまちがえると、それを直したほどだった。誰もがびっくり仰天していた」。


レナード・バーンスタインとの共演は、1985年の広島平和コンサートのプロモーターによってバーンスタイン側にみどりの起用が打診されたことが縁。

バイオリンの弦を張り直すのは1分程度の時間でできるそうですが、タングルウッド音楽祭の夜は大変な蒸し暑さで、奇しくもオーケストラ員全員が上着なしで演奏することが決定していました。
そのため、いつもはコンサート・マスターのジャケットのポケットに入っているはずの弦がなく、これが不運を呼び、同時に幸運をも呼ぶ結果となったわけです(『母と神童』)。



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posted by gyanko at 21:00 | Comment(19) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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