まずはこちらから。
なぜアメリカ人と日本人では、ロボットに対する態度がこんなにもちがうのか?
この半世紀、日本人とアメリカ人のロボットに対する態度にはちがいがある。コレクターズ・ウィークリーによるロボット・コレクター、ジャスティン・ピンチョットの興味深いインタビューの中で、理由のいくつかが推測できる。
コレクターズ・ウィークリーはピンチョットにアメリカ人のロボットに対する態度について尋ね、ピンチョットはこう答えている。
「不安の種はいつも、ロボットが知能をあまりにもちすぎて、自分のやりたいように行動を決定してしまうのではないかということでした。初期のSFの大きなテーマは、私たちが創ったロボットの暴走でしたし。
こんにちでも、これはコンピュータに対して広く行き渡っている感覚です。コンピュータが感情をもち、私たちが命じないことも自らで決定を下すようになってしまうではないか?という懸念ですよね。
すべてのテクノロジーをめぐる不安は、ロボットに具現化されているんです。ロボットというのは、「ロボットが支配し、金を牛耳り、私たちの暮らしを誤った方向へ導いていくのでは」という妄想をかきたてるようにデザインされていますから。
子供の頃、私はロボットが怖かったものです。玩具会社は意図的にロボットを大きく作り、そうした不安要素を増大させていました。これは、子供が(訳注:怖がりながらも)つい駆け寄ってしまうホラー映画と同じスリルなんです。私たちは、不安要素は現実ではないとはわかっている。でも、怖がるふりをするのが楽しかった。
ロボットの魅力の1つには明らかに、ロボットが私たちに似ているということがあります。そのロボットを私たちが作った。しかし、いつだって事態がとんでもなく間違ったことになる可能性があるんだということです。」
これとは対照的に、ピンチョットは日本人のロボットの歴史をこう語る。
「現代の玩具のロボットの真の隆盛というのは、戦後の日本が発端です。日本が米国の支援を受けて復興していた時代ですね。もっとも、日本には戦前からブリキの玩具製造がしっかり根付いていましたから、彼らにとって玩具産業を再興し、継続していくことはしごく簡単なことだったんですが。
戦後の日本のロボットのマーケティングやパッケージに大きな影響を与えたのは原爆でした。これは、(訳注:日本人にとって)技術的に進化した巨大なスーパーパワーが別のスーパーパワーを粉砕するという物語でした。このテーマ全体が宇宙ものの玩具やロボットに形を変えたのです。初期のロボットの包装箱を見ればわかります。街中をロボットが踏み荒らし、破壊を引き起こしている。これは、爆弾でなにが起こったかという暗喩だったんです。
日本でロボットがどんなふうに捉えられていたのかは、私にはわかりません。ただ、彼らは明らかに、米国市場が興味を抱くものなら何にでも顔を突っ込んでいこうとしていたように思えます(訳注:日本のロボット玩具は当初、米国への輸出用として製造されていたようです)。
当時のロボットに対するアメリカ人の感覚は、戦前のジュール・ベルヌや『バックロジャーズ』シリーズが人気だった1930年代から変わっていませんでした。アールデコやキュービスムの時代でもありました。ですから、こうした要素が当時の(訳注:日本のロボットの)デザインに影響を与えていますし、今アメリカ人がロボットを想像するときになにを思うかということにも影響を及ぼしているんです。」
このかたは、日本人のロボットに対するイメージの根底に、原爆を原体験とするスーパーパワーがあるというご意見のようです。
以前、ご紹介したフランス人の現代日本研究者、Jean-Marie Bouissouのマンガ論でも、「原爆=科学の勝利=日本の戦後の科学への没頭」という流れを『鉄腕アトム』で解説していました。
ただ、なぜその原爆を原体験とするスーパーパワーを恐怖ではなく、愛情の対象にしたかというあたりが大事かと思うのですが、この経緯にはやっぱり強大で恐ろしいものが信仰や憧憬の対象になりうる宗教観、そうして「物にすら神が宿る」というアミニズムが深く関係してくるのかなあと思います。
そのあたりを洞察しているのが、こちらの記事でございます↓。
これを書いたクリストファー・ミムズはテクノロジー関連のジャーナリスト。『Scientific American』、『Popular Science』、『Technology Review』等で執筆中。
なぜ日本人はロボット愛するのか?(そして、なぜ米国人はロボットを恐れるのか?)
アニミズム、フランケンシュタイン、そして、ロボット戦争の幕を開けを引き起こす「生命の創造」を禁ずる聖書
とある島国の、全長数百フィートの戦闘ロボからセラピー用の幼いロボットまで、あらゆるロボット的なものへの愛情はよく知られている。これは、(日本の愛情と)同様に西洋に定着しているロボットへの恐怖と著しく対照的だ。そもそも、ロボットという言葉はチェコの戯曲(訳注:カレル・チャペック作『R.U.R.』)の中で1921年にデビューし、そのときからすでにロボットは最終的には決起し、主人である人間を殺すものだった。
ほぼすべてのSFで未来の展望といえば、人間の半自律の協力者、ロボットがますます私たちの生活の中で大きな存在となっていくことがすでに決まっているように思える。そんな中、なぜこの2つの文化は、ロボットの現況や未来にこれほど根本的に異なる結論を導き出してしまったのだろう?
世界で最初に(非産業)ロボットの個体数調査を行ったヘザー・ナイトは、ロボットと人間の意思の疎通をライフワークにしている。彼女は、ロボットに対する日本人と米国人の態度の差は、ロボットという概念が生まれるよりもっとずっと古い時代に端を発していると結論を下している。つまり、宗教だ。
「日本では…アニミズムのせいで、みな文化的にロボットに対してオープンです。日本人は、無生物と人間を区別しません。」
アニミズムは、仏教の伝来より前から存在し、今なお日本文化に大きな影響力をもつ神道信仰の構成要素だ。アニミズムとは、すべてのもの、人間が作った物にさえ霊が宿るという考え方である。社会科学者、北野菜穂の論文『Animism, Rinri, Modernizationp; the Base of Japanese Robotics(アニミズム、倫理、近代化:日本のロボット工学の基盤)』にはこうある。
「太陽、月、山、木、それぞれに霊や神が宿っている。神々にはそれぞれ名前があり、特徴をもち、自然と人間の現象をコントロールしていると信じられている。こうした考え方はいまだ信じられており、自然と霊的存在への日本人の関わり方に影響を及ぼしている。これはのちに、人工物へも波及した。そのため、(日本人は)日用品や常用器具すべてに霊が宿っていると考え、こうした日用品に宿る霊が人間とうまく調和することを信じている。」
対照的に、西欧では、生命の創造は必然的に創造者を破壊に導くものだ。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まった話ではないのだ。作家の梅沢類(訳注:日系カナダ人作家)はこう指摘している。
「ロボット工学に対する西欧の態度に宗教が完全に影響を与えていることを理解するためには、ユダヤ教とキリスト教に共通の一神論が忠実に守っている教義を思い出さねばならない。つまり、生命を創ることができるのは神だけであること。また、創世記の一般的な解釈では、初めに存在したのは神だけであり、すべての生物は神の創造物なのだ。出エジプト記もまた、偶像崇拝は罪であると定めている。
こうしたことから、無生物に息を吹き込む者は、神の役割を担っていることになり、とどのつまり、偽りの偶像に自身がなっていることになる。こんな冒涜者には罰を与えるのがふさわしいし、SFの慣例だとロボットの裏切りと言う形式をとる。ロボットという用語を造ったことで評価されている1920年の作品、『R.U.R』に始まり、映画『ターミネーター
こうした先入観を元としたフィードバック・ループの中で、文化というものが、日米のロボットの捉え方だけでなく、日米のエンジニアが作るロボットのデザインにも影響を与えている。
ミラー・マッキューン(訳注:米国の科学技術雑誌)に寄稿しているジャーナリスト、サリー・オーガスティンは、「日本人が、日本の能のように曖昧な表情をさせてロボットの感情をほのめかすことで満足するのに対して、アメリカ人はロボットの表情が感情的に豊かであることを重視する」と論じている。
もっと具体的に言えば、アメリカ人はロボットの研究を軍事利用の方向へ向かわせることが多いのに対し、日本人は「日々の暮らしの改善を目的とする消費者用のロボットに大枚を投資している」。
アメリカ人がロボットを危険で意図的な人造物であり、いずれ作り手に死をもたらすものと見なし、日本人はその文化によってロボットを協力者、西欧で言うならソウルに近いものを宿したものと考えるというなら、片方の国家がロボットを軍事利用することに肯定的になり、他方が、急速に高齢化が進み、扶養を受ける人口が増大している国を助けるのにふさわしい慈悲深い仲間と考えるのも、ほとんど驚くべきことではないだろう。●
次回は、ジャスティン・ピンチョットの記事についたコメントをお送りいたします。
↓励みになりますので、よろしければ、ひとつ。

タグ:ロボット