2011年03月22日

東日本大震災 - 私は、どうやってボーイング767を着陸させたか?-

本日はこちらから。


日本を破壊的地震が襲ったとき、私がどうやってボーイング767を着陸させたか。

今日、初めて大西洋を渡るというパイロットがいた。彼は、10日前、日本を襲ったマグニチュード9.0の地震の直後、ボーイング767を着陸させるために非常事態を宣言するという事態に追い込まれた。ここに紹介する文は、そのパイロットの手によるものだ。

その地震当日、ポートランド発成田行きデルタ航空91便は、約500マイル離れた新千歳空港への着陸を余儀なくされた。
航空関連のフォーラムやRedditに転載されている、このパイロットが書いたとされる文章は、地震から数時間、管制官の間に混乱が生じ、危険な状態になっていたことを伝えている。


(訳注:↓以下、パイロットによる手記)

私は現在、無事だ。成田にあるクルーたちが宿泊するホテルの自分の部屋でこれを書いている。

今回のフライトは、私にとって初めての太平洋横断だった。国際線ボーイング767の機長として、つい最近、合格したばかりの新米の私からすれば、太平洋横断の旅は、控えめに言っても興味深いものだった。大西洋ならこれまで3回、横断したことがあり、大洋を渡る手筈に慣れてはいたが。

空から眺めるアリューシャン列島の景色は息を呑むほど美しく、すべてが順調、着陸態勢にも何も問題がなかった。その、東京まで100マイルという時点までは。
問題発生の最初の兆しは、日本の航空管制が、すべての航空機を待機状態にさせはじめたことだった。
最初、私たちは、よくある着陸時の混雑によるものだと考えていた。だが、社から、地震発生を伝えるデータリンク・メッセージが入り、つづいて、成田空港が点検のため一時閉鎖されていること、まもなく再開される予定であることを知らせるメッセージが送られてきた(この会社はいつも非常に楽観的だ)。

しかし、私たちが感じている現実は、あきらかに少し様相が違っていた。
日本の管制官の緊張度合いが極めて高いように私たちには感じられたのだ。日本の管制官は、私たちに対して、「無期限の」待機もありうると言ったのである。

待機状態がいつ解かれるのか。その期限を明確に示してくれる人間はいそうになかった。私は急いで副操縦士と交代要員の操縦士に、他に着陸できる空港を探し、燃料の残量を絶えずチェックするように指示した。大洋を渡るフライトの後は、燃料の残量は大概、少ないからだ。

各機の正操縦士たちが他の空港への振り替えを要求しはじめたのは、それからさして時間が経たないうちだった。おそらく10分程度だろう。カナダ航空、アメリカン航空、ユナイテッド…。全員が、燃料残量が最小限しかないことを報告していた。
私の機体は、1時間半〜2時間の待機であれば、間に合うだけの燃料が残ってはいた。
だが、言うまでもなく、この代替空港の要求が事態を複雑にしはじめていた。

日本の航空管制から、成田空港が損傷を受けたため無期限で閉鎖中であるとアナウンスがあったのはその後だった。
すると、とたんに全機が、東京近くの羽田空港への着陸を要求しだした。JALや西欧の旅客機、5〜6機が羽田へ向かう許可を得たと思いきや、今度は、「たった今、羽田も閉鎖された」と管制側からアナウンスが入った。なんてこった!
待機してばかりはいられなかった。私たちは全員で、大阪、名古屋といったもう少し遠い代替空港を探さねばならない事態に追い込まれた。

大型旅客機の欠点は、小さな空港に乗り入れができないことだ。一般的に、長い滑走路を必要とするのだ。西から東から、そうした大型旅客機が押し寄せ、全機が着陸する空港を要求し、そのうちの数機は燃料が危機的状況。管制側は、その状況を制御しきれなくなりつつあった。

緊急状態だった。燃料が危機的状況になる前に、私は名古屋へ向かう許可を得た。燃料はまだ大丈夫。これまでのところ、うまくいっている…。
ところがである。名古屋に機体を向けて数分後、私は、管制から逆コースを取れという指示を受けた。それは、「命令」だった。名古屋は飽和状態だったのだ。これ以上の航空機を受け入れられない。大阪も同様だった。

この指示によって、私たちの状況は一変した。かなり遠方の空港まで飛ばねばならない可能性を考えると、もはや「燃料、大丈夫」ではなく、「燃料、最小限」だった。
そのうえ、他に10数機の航空機が同じ状況にあったことが、危機を増大させた。全機が管制に対して、どこかに着陸許可を出してくれと強い態度で要求していた。

カナダ航空、それからどこかの航空会社の旅客機は、燃料残量が「緊急」状態に陥っていた。旅客機は次々に米国空軍基地を目指しはじめた。東京に最も近い基地は、横田空軍基地だった。
私たちもすぐさま、この基地へ向かう競争へ飛び込んだ。だが、横田もまた閉鎖されていたのだ!もはや場所がなかった。

ここまで、コックピットの中はてんやわんやの状態だった。副操縦士は無線にかかりきり、私は操縦と指示出し、交代要員の副操縦士は、向かうべき場所が燃料の範囲内なのかを算定しようと航空図と格闘。そうしながらも、アトランタの社との間をデータリンク・メッセージが行き交った。

私が選んだのは、本州の北端、三沢空軍基地だった。この燃料でぎりぎり辿り着ける場所だった。管制側は、問題が1つ解決したことにほっとしていた。私たちは、東京地区の大混乱を抜け出た。
管制側は一時、仙台へ向かわせようとしていたという話も聞いた。仙台は、沿岸の小さな地方空港で、その後、津波による浸水を受けたところだ。

アトランタ側からは、北海道の千歳空港へ向かうことができるかと尋ねるメッセージが送られてきた。(このとき航行中だった)デルタ航空の他機は、千歳へ向かっていたのだ。
このメッセージのおかげで、コックピットの中は、さらなる緊急状態へと追い込まれた。千歳空港へ向かうための、天候確認、航空図チェック、燃料確認。

オーケイ、私たちは千歳に向かうこともできた。千歳へ向かっても、燃料は危機的状況には陥らない。……これ以上の遅れが出なければの話ではあったが。
三沢方向に向かいながら、私たちは千歳へ向かう許可をとった。

が、ここが重要な思案のしどころだった。考えよう。さらに遠い空港へ向かうために、より近い、問題のない空軍基地を完璧に度外視して通りすぎてしまうなんて、本当に会社のためになるのか。……こんなことを安全報告書に書いたらどう思われるだろう?もし、万が一、間違いがあったら…。

と、そのとき突然、管制から、千歳とは全くちがう方角への指示がきた。その方向を維持しながら、スタンバイするようにというのだ。
悪夢だった。状況は急速に悪化していた。最初は東京近くで待機、名古屋へ振り替えが始まったかと思うと、東京へ逆戻り、その後、今度は三沢へ。とっておいた大事な燃料がどんどん減ってきていた。

ここから引き続く私と管制とのやりとりは、……そのままではないが、こんな感じだった。

「札幌管制へ。デルタXX便は千歳へ向かう早急な許可を要求する。燃料は最小限、待機不可能」
「許可できない。飛行パターンが満杯」
「札幌管制へ。デルタXX便は非常事態を宣言する。燃料残量少、千歳へ向かう」
「デルタXX便。了解。千歳へ向かうことを許可する。千歳アプローチとコンタクトをとってください」

もう十分だった。無期限の待機状態をとりながら、私は燃料が危機的な量に減るのを阻止しようと決意した。すでに三沢は通り過ぎてしまっていた。私は、最後の切り札を切った。……非常事態を宣言したのだ。
こうなれば、あとの問題は、社に提出しねばならないちょっとした書類だったが、そんなもんなんだっていうんだ。


私たちの機は、千歳へ着陸した。無事に。だが、燃料は、あと30分で「本物の」燃料緊急状態になるところだった。
無事というのは、いつだって気分が良いものだ。
私たちは、空港から少し離れた駐車場までタクシーで行き駐機場までタクシング(地上走行)し、そこで一休みしながら、5〜6機かそれ以上の飛行機が空港へ向かうのを見た。

最終的にデルタ航空は、747を2機、私のを含めて767を2機、777を1機、すべて千歳に着陸させた。アメリカン航空2機、ユナイテッド1機、カナダ航空も2機、見た。ANAやJALの旅客機は言うまでもない。


追伸:9時間後、日本の航空はようやく飛行機にタラップをつけてくれるまでに落ち着き、やっと私たちは飛行機を降り、税関を通ることができた。……が、これはまた別の、興味深い話になる。


これを書きながらも、4度、ホテルがわずかに余震で揺れるのを感じた。45分の間に4度だ。


それでは。

J.D.より。●




地震直後、近隣の空港が点検に入っているところで、このデルタ航空91便は行き場をなくしてしまったではないかと思われます。
実際、この後だとは思いますが、横田基地へ着陸した飛行機もあったようです。


これは手記というより、767便のパイロットが誰かに当てたメールのようでした。公開したのはご本人ではなく手紙を受け取ったかたなのだろうと思いますが、ご本人にしてみれば想定外だったのではないでしょうか。


他方で、うがった見方をすれば、そういう体裁で作った作り物の手記という見方もできるのでしょうが、……少なくともこれを書ける人間はかなり限られているのではないかと感じます。




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<追記>taxi=タクシングをお教えくださったかた、誠にありがとうございます。初めて知った言葉でございます。訂正いたしました。申し訳ありません。

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2011年03月18日

海外記事:東北地方太平洋沖地震〜日本人はそういう人たちなのです。その2〜

続きです。


危機に面して、どれだけ協力しあえるかという点で社会を採点するなら、世界中が、先週の地震と津波の後の日本の人々にA+を与えるだろう。

略奪(looting)も暴動もないという事実に関しては、すでにたくさんの報道がされている。商品が切れているにもかかわらず、スーパーやコンビニ、ガソリンスタンドできちんと列をつくり、押したり喧嘩をしたりすることなく並んでいる人々。
打撃を受けた福島の第一原発で破滅を食い止めようと働く人々は、英雄のように迎えられはしない。シンプルに自分たちの仕事をしている人たちなのだ。少なくとも、日本人はそう考えている。

西欧の人々は、日本のこうした協調精神や自己を抑制する傾向を理解できず、ほとんど当惑している。私たちには、これは極端な自己犠牲に思えるのだ。でも、日本人にとっては、これは普通の行動だ。……なにも異常ではない。

どんな環境あって、日本人はこんなことができるのだろう?そうして、どんな環境があって、米国ではこういうことを見聞きしないのだろう?

日本人の母をもつ日系アメリカ人として、私は2、3、理論をもっている。

私は決して専門家ではない。けれど、私を育ててくれた人は、祖国の文化ではあまりに変わり者すぎて満足できず、なのになお祖国に焦がれつづけた一人の日本人だった。
双方の文化に足を突っ込みながら、そのどちらにも安住の地を見つけられなかった母は、日本と米国の違いを熱心に語ったものだった。たとえば、礼儀上、ほとんどの日本人ははっきりとものを言わないといったようなことを。

母の体験や、母の友人たち(一時的でも永久的にでも、米国に住んでいる日本女性たち)の体験を通じて、私は日本文化の感覚を覚えた。そして、アメリカ人であることがいろいろな意味で日本人であることとは正反対であることも知った。

私が、日本文化に強い影響を及ぼしていると考える要因がある。

日本は、資源の限られた島国である。

経費が掛かるからというのではなく、ときとして日本人はあまり物を買い込まない。アメリカのようにたくさん物を溜め込む場所があまりないというのが単純な理由だ。
たとえば、典型的な日本のキッチンは、アメリカのキッチンより格段に物で溢れていて、非常に狭い。キッチンに夢見るのは花こう岩の調理台とステンレスの電化製品なんていうアメリカとはちがう。

土地が狭いと、家畜を育てる牧草地も少ないということになる。ついでに、日本人がアメリカ人のように肉や乳製品を食べるようになったのは、ほんのここ数十年の話だ。
通常は、アメリカに滞在していても、日本人の毎日の食事の主軸は肉や乳製品ではない。日本人の伝統的な食事はもっともっとシンプルで、品数も少ない。これは、食事を準備するスペースの狭さからきている可能性がある。

こうした日本の習慣を、私たちは風変わりで面白いと捉える。たとえば、フトンで寝ること、床にすわって食事をすること、弁当箱で食事をとること、炊飯器を使うこと。これらは、空間の狭さに起因しているものだ。
フトンは畳んでしまえる。テーブルは好きな場所に運べる。仕切りのついた弁当箱は、最小限にまとめてさまざまなオカズをちょっとずつ入れられ、食事を持ち運びできるようになる。炊飯器は食事の手順を簡素化できるうえ、調理台の上ではささやかな場所しかとらない。

大量消費は存在はするけれども、余計なものを買い溜めできる場所がないのだから、多く買いすぎるというわけにはなかなかいかない。


日本は、災害に備えることが習慣になっているし、苦難を耐え抜く強い心をもっている。

日本では地震が日常茶飯事だ。そのため、地震の試練は普通に生活の一部になっている。人々は、いつ災害が襲ってくるかわからないと、常に意識しながら暮らしている。
日本の最も上の老年層は、第二次世界大戦の苦難を覚えている。品物が欠乏し、空襲警報が鳴ると、爆撃を避けるために防空壕へ走ったあの時代のことを。

私の母は戦争のことはめったに話さなかったが、一度、こう話してくれたことがある。母の家族はいつも日常的に貴重品をまとめ、地下に食料や物資が入った貯蔵庫を埋めていた。だから、たとえ家が爆撃で焼け落ちようとも、すべてを失わないようにできていたんだ、と。

今、日本の壊滅的打撃を伝えるニュースを見ると、いくつかの地域で食料の供給がかなり制限されているという。しばしばヌードルやお茶が不足しているとも。
避難所では、人々が長い列を作ってオニギリを受け取っている。オニギリとは塩をまぶした米を丸く握ったもので、通常は海草で包まれている。米国の標準からすれば質素に思えるかもしれないが、これは日本の食事の基本だ。
誰も、不平不満は言わない。みな食べ物に感謝し、みんなが食べられるようにするには、状況を見てそれに応じなければならないことを理解している。


日本文化は協調を奨励し、利己主義を阻止する。

しばしばガイジン(日本人ではない人たち)にとって理解しがたいのは、アメリカ人が愛しく大事にしている価値観が、日本の価値観と全く正反対のものだということだ。アメリカ人が重きを置くもの、つまり、自己決定、個性、自己主張、自立、そして強い自意識だ。

日本で最も大事にされているのは、集団だ。個人ではない。学校、家庭、メディア、社会的プレッシャーを通じて、子供たちは、自分たちの役割が自分のためではなく、大きな善のために尽くすことだと教えられる。

利己主義は外国の概念であり、仲間と協力して動けずに自分第一に考える子供は行儀が悪いと思われてしまう。そして、他より自分自身の欲求を優先すると、そんな考え方では社会に居場所がないことをすぐに学ぶことになる。
お辞儀をする日本の習慣は、こうした特異性が表れている。深くお辞儀をすればするほど、より深い尊敬と敬意をもって相手とつきあっていることを示している。

このような日本的な美徳は、深く心に根付くため、日本の影響を受けずに育つということが大きな問題になりかねない。日本の子供たちが米国にやってきて、学校に通い、その後、再び日本に戻り、適応しようという段になって、大問題になることがあるのだ。

私の母の若い友人たちの体験は、「日本人であること」と「アメリカ人であること」の文化的な違いが非常に大きいということだけでなく、許されざることだということを証明している。

私の故郷は大きな大学を中心としているため、海外からの多くの留学生を引き寄せている。大学院で学位を取得する人たちは、家族とともに来ていたりする。
私の日本人の母は、そうした留学生の妻たちに地元のアジアン・マーケットや日本レストランを紹介する熱心かつ熱狂的な大使役だった。

彼らの中には幼い子供を連れて米国にやってきて、滞在中、子供を保育園や幼稚園、小学校に通わせる人たちも少なくなかった。
その後、彼らは日本の公立学校へ戻っていくのだが、帰国後、半分以上の確率で、妻のほうから母に、彼女の娘や息子たちを日本の公立学校のシステムに順応させるのがどれほど大変かを綴った手紙が来た。

こうしたアメリカナイズされた子供たちは、躾上の問題を抱えていると見なされた。他の日本人の子供に比べて、ずけずけモノを言う、規則に従わない、わがまま、協調性がない…。
ほとんどすべての場合、彼女たちは結果的に子供をアメリカ人生徒のために作られた私立学校へ通わせるはめになることを母は経験で学んだ。

米国で暮らしていた日本人の子供たちは、アメリカ人の基準から見れば、行動上の問題はなんら見受けられない。日本の基準で何をもって問題児とされたか、それは彼らのアメリカ人的特徴だった。
彼らは、独立していて、自分に自信があり、恐れることなっく率直に話したり自分だけで決める。アメリカ人の子供ならほとんどが、その特徴をもっていれば、学校でうまく過ごせ、人生を謳歌できる。アメリカでは価値があるものとされる、そうした特徴が、精神構造が全く異なる日本では問題になってしまう。

どちらのモノの考え方が優れているということではない。どちらもその国の文化、環境、歴史の上に成り立つ、その国独特のものなのだ。

けれども、日本の大惨事のニュースを見ていると、日本人たちは、この苦難のときに議論も争いもなく、自然と協力しあっている。日本人は、個人の自発性を重要視せず、集団にとっての最善の利益を目指して動くことに慣れている。

子供たちが急き立てられずとも一生懸命勉強し、会社員は家族の時間を犠牲にして長時間、仕事に打ち込む。そういう日本人の価値観が、この苦難の中でも、そうしてこれまで起こってきたさまざまな災害の中でも、不平も言わず耐え抜く日本人を作り上げている。人とちがう行動をとる(西欧の人々はそうなるのではないかと予想しているが)のは、外国の考え方なのだ。

私は米国で生まれ育ったとはいえ、他人に敬意をほとんど払わない行儀の悪い行動をとったときや、自分のことばかり考えすぎているとき、自分がもっているものを平等に人と分かち合うことを拒んだとき、こうした日本の価値観がはっきりと形になって私の前に現れた。
母が怒りの声を上げ、こう言ったものだ。「お前は日本人じゃない!アメリカ人だ!」

私は昔、この言葉を否定的なものだと思っていた。けなしているのだ、と。でも、現実的には、私が世界に対して「私、私、私」という立ち位置でアプローチしているという母の観察にすぎなかった。彼女は、他人を優先し、自分を最後に回すように育てられてきた人だった。

ゆうべ、日本のニュースを見ていて、私はあるインタビューに衝撃を受けた。
インタビューされていたのは、メルトダウンの可能性が高まるのを食い止めようとしている第一原発プラントの50人の社員、― 『Fukushima Fifty』の妻の一人だった。

彼女は、夫と携帯電話で「気をつけて。がんばってください。私はしばらく家を離れることになります」と話したことを落ち着いた声で語っていた。そして、彼女は、夫が立派に仕事に努められるよう祈っていると言った。

日本人である彼女は、夫がやらねばならないことは職務であると理解していた。夫が全力を尽くして仕事をするのは、みなの最善の利益のためだった。
彼はもう生きては家に帰ってこないかもしれないと恐れたところで、夫の身を案じていることを大声で訴えたところで、彼の仕事の助けになるわけではない。そんなことを叫ぶのは、正しいことではないし、適切でもないのだ。

アメリカ人の妻や夫が、彼女と同じような行動をとるのをあなたは思い描けるか?私はできない。日本人とアメリカ人、どっちが正しいのかって?そんな問題じゃない。

今この瞬間、日本は、自分がありえない状況にいることを自覚している。地と水と火が起こした大惨事は、結末も見えないまま、続いている。被害が大きかった地域を寒波と雪が襲い、生存しているかもしれない人々の帰還を阻んでいる。数え切れない数の遺体の収容を邪魔している。

それでも、日本の人々は礼節と思いやりを失わない。みんなのために善かれと願い、働く気持ちをなくさない。そうすることで、日本人の一番素晴らしい部分を守っている。
彼らは多くを失うかもしれない。けれど、魂は失ってはいない。日本人が受け継いできた文化も、品格もなくしてはいない。

この絶望のさなかでも、彼らは私たちすべてをはっとさせる。

私の母が昔よく言っていたように、彼らは日本人なのだ。

私にとって模範を示してくれていた母はもういない。でも、今、私は数百万人のロールモデルを見ている。
ただ思うのは、母の言葉の裏側にあった静かな品位と控えめなプライドを、こんな呆然とするほどの悲劇から学びたくなかったということだ。

彼らは日本人なのだ。甚大な被害、そしてこの試練を乗り越えられるのかどうかという大勝負の今、こんなときだからこそ、私たちだって、日本人のような品格をもてるよう祈ろう。●



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海外記事:東北地方太平洋沖地震〜日本人はそういう人たちなのです。その1〜

本日はこちらから。


壊滅的な地震と津波に直面した日本人のストイシズムを理解する。

私の母は5年前に亡くなった。今でも寂しいけれど、金曜の地震と津波が引き起こした災害や人々の死、そして惨状を伝える悲惨な映像を目にすることなく逝ったことだけはよかったと思っている。

日本人だった私の母は、アメリカ人である私の父と結婚し、米国へやってきた。けれど、彼女の心にはいつも祖国があった。彼女にとって、この日出づる国が荒ぶる津波に広範囲にわたって押し流されていくのを見るなど、まず耐え切れないことだったろう。

日系アメリカ人の私だが、日本を訪れた回数は指2本で足りてしまう。それでも、テレビに釘付けになりながらも、映像を正視するのは難しいことだった。大阪と名古屋(東京のはるか南の都市)にいる母の親戚が無事なのはわかっている。でも、私がテレビで見たどの顔もどこか、遠い従兄弟や家族の友人のように思えてくる。

私は日本語を話せない。父もそうだ。とはいえ、いつも日本語を聞きながら育った。そのふんだんな情報の源であった母は、いつだって日本人コミュニティや日本人の友達をなんとかして見つけようとしていた。私たち一家がどこに引っ越しても、引っ越すたびにいつもそうだった。
だから、私の頭には、十分な数の言葉やフレーズが入っていて、おおまかな状況を理解できる。

この、ぽつぽつと言葉を覚えているという日本語の知識のせいで、私の胸にテレビに映る災害の映像がいっそう突き刺さってくる。襲いくる津波の映像とともに流れてくる被災者の声に、私の知っている言葉が混じるせいでびくりとしてしまう。
たとえば、『hayaku(早く)』、これは『fast』、『hurry』。『ikimasho(行きましょう)』は、『let's go』。『sugoi(すごい)』は、『terrific』だとか『terrible』。

瓦礫だらけの黒い水が家を破壊し、車や船をひっくり返し、町や村を壊滅させていく映像の中で、こうした言葉が叫ばれているのを耳にするのが本当に苦痛だ。彼らの恐怖を聞き取れるのに、彼らがどうなったのかまでは私には理解できないのだから。

日本人のストイシズムから生まれているものは多い。
日本語通訳による吹き替えは、ゆっくりとしていてたどたどしく、無感情だ。これは、日本の公共放送、NHKの映像をそのまま訳しているためだ。
被災者たちの声を伝えるNHKのニュースは、とてもニュートラルで客観的なのだ。これに比べると、米国のCNNのiRepot(訳注:CNNが展開する、各地視聴者が取材したニュースを集めたサイト)など、頻繁に出てくる四文字言葉にピー音をかぶせているほどだ。

日本人が苦痛を表現するとき、言葉はほとんどない。「あぁ…」という泣き声だけだ。このビデオ(訳注:削除済みのようです)を撮った日本に留学中のアメリカ人大学生のように、延々と悪態をつくこともなく、まるで他人の不幸を喜んでいるかのように興奮するようなこともない。このアメリカ人大学生は、ビデオカメラを抱えて製油所の爆発現場に向かって走り出し、その動画をCNNに送って、15分間の名声を得たのだ。

日本国民の大多数はこんなまねはしない。それはなぜか。日本人とともに過ごしたことがある人なら誰だって、その答えを知っている。

私たちはニュース映像で、日本の人々の姿を見ている。彼らは、津波に押し流され、夫や妻や子供たちと離れ離れになったことを話しながら、それでも泣き喚くこともせず、落ち込むこともなく、諦めることもしていなかった。
アメリカ人レポーターたちは、ついに日本人が感情を乱し、人目も憚らず悲嘆に暮れる日がきてしまったのだと思っただろうが、私はそんなことはないと知っていた。
日本人はこうやって生き抜いてきたのだ。

私自身はストイックとは程遠い人間だけれども、この日本特有の美徳のサンプルに囲まれて育った。母だ。母は、日本の親戚たちから見れば多少感情的で、日本人らしくない人だったが、末期の肝臓ガンと診断され余命5〜7ヶ月と宣告されても、ガンに心を流されることを拒み、18ヶ月生き抜いた。
嘆きもせず、悲しみもせず、泣きもせず、取り乱すこともなかった。まるで何一つ変わってはいないとでもいうように、いつも通りだった。
人生は、母がそう続けていける限り、変わらないものであり続けた。

最後の数ヶ月に、母はハワイへの1週間の旅行を計画した。地理的には、米国と日本のちょうど真ん中の場所への旅行だった。そこで、まだ存命の4人の姉妹のうち2人と再会した。
が、数十年ぶりにようやく再会したというのに、彼女たちは、涙も感情の高ぶりも見せなかった。

私はその旅行に同行したのだが、ある夜突然、母に痙攣発作が起こり、病院で一夜を過ごすことになった。その後、弱々しい疲弊した状態でホリディ用のレンタルハウスに戻ってきたときでさえ、誰も動揺は見せなかった。
私たちは観光をし、買い物をし、レストランで食事をした。まるで何も悪いことなど起こっていないかのように。母の姉妹たちは決してうろたえず、動揺せず、悲しみや不安に身を預けたりはしなかった。

空港で別れるときも、もう二度と相見えることはない人たちの行動とは思えないものだった。抱き合い、さよならを言い、連絡を絶やさないことを約束して、彼女たちは別れた。が、そこには、これが最後という決然たる気配も、後悔も、絶望もなかったのだ。

10ヵ月後、母は自宅で逝ったが、私たち一家には、あのときの母たちほど立派なさよならの瞬間はなかった。終わりのときが近づいていることを受け止める心も、言っておかなくてはならない大事なことを言い交わすことも、深い情緒に満ちた態度もなかった。
あれは、私の母のやり方だった。母の家族のやり方であり、彼女が育った戦前の日本社会のやり方だった。

日本は、地震に厳しい試練を何度も課されることを、避けがたい人生の現実として常に受け入れてきた国家だ。サイレンが鳴り出したら、すべてを置いて逃げろと国民に教えてきた国だ。
戦争に負け、原爆で二つの都市が消滅するのを見た国だ。君主制が崩壊するのを目撃し、民主主義を受け入れることを学び、戦後に年月をかけて復興し、現在の経済大国になった国だ。
Wall Street Journalは、去年、中国に抜かれるまで、日本が42年間に及んで米国に次ぐ世界第2位の経済大国という、みながうらやむような地位にいたことを伝えている。

日本はタフだ。日本がトーク番組のゲストだったら、『チャーリー・ローズ』では生き生きと語り、『ジェリー・スプリンガー・ショー』では黙して語らずだろう。日本は、取り乱さない。良くも悪くも、それが日本のやり方だ。


(訳注:
チャーリー・ローズ:チャーリー・ローズのトーク番組。一対一のインタビューや討論会で、彼自身が最も関心がある、洞察力に富んだ政治家、科学者、ビジネス界の指導者、作家、企業家、アスリートと対話する。
ジェリー・スプリンガー・ショー:『愛する二人別れる二人』の元ネタになった、問題を抱えた夫婦や家族たちが出演し、議論する番組。ゴミ番組の典型と言われることもある。)

子供の頃、私は母の若い時代や、家族、姉妹たちの写真が貼られたアルバムを見たものだ。スナップ写真であれ、有名な観光名所でポーズをとった写真であれ、どの写真も厳粛さをたたえている。ほぼ決然とした表情だ。微笑はない。カメラ向けの大袈裟なポーズもない。
「どうしてお母さんの姉妹は笑わないの?」と私は母に尋ねたものだ。すると母はこう答えた。「日本人はそういう人たちじゃないの」。まるで説明はこれで十分とでも言わんばかりに。

私が15歳のとき、母に連れられて、2週間、日本の家族を訪ねたことがある。日本を旅し、私自身がもつ文化の源流の1つを辿った。旅では、ところどころ私の日本人の叔母たちが付き添ってくれた。
東京ツアーのはとバスに乗ったときのことだ。バスには、アメリカ人旅行者と日本人旅行者の双方が乗っていた。ツアーガイドが旅行者たちを集め、集合写真を撮った。アメリカ人たちは開けっぴろげに笑い、手でジェスチャーをした。一方、日本人たちは、両腕を下ろして脇側に揃え、感情の見えない顔つきでカメラを見ていた。

今でもときおり私は、この写真を見て、あのときの旅行を思い出す。
私は、外見は日本人に見えるのに、行動はアメリカ人だった。人々はわずかに、だが明らかに私を非難していた。私はあまりにうるさく、あまりに感情的だった。まるで精神的に不完全な人間であるかのように両手を使って話し、あらゆる仕草があまりにも大きく、開けっぴろげすぎた。

当時の私にはわからなかったことが、今はもうわかる。
計画停電、食料と水の流通の少なさ、ガソリンスタンドやスーパー、コンビニ前の長い列。そんな中だというのに、街で暴動が起こらない理由。それは、日本人はそういう人たちではないからだ。大昔、私の母が私に謎めかしてそう答えたように。

私たちも、あの9.11の後、空しさと悲しみの片鱗を経験はしている。けれど、日本は、そんな私たちが想像もできないことを今、経験している。
私たちは9/11をなんとか乗り越えたが、日本は絶対に乗り越えるだろう。役立つのは、日本を助ける救助機関への募金だ。日本がストイシズムを結局は手放してしまうだろうだとか、『ドクター・フィル・ショー』に出てくる、罪悪感に苦しむゲストたちのように取り乱してしまうのではないかという推測などなんの役にも立たない。

(訳注:
『ドクター・フィル・ショー』:ダイエット、家計、贈答品の相談、年甲斐もない服を着る母親、不仲の夫婦、崩壊家庭など、広い話題をカバーするトーク番組。)

仮にアメリカのメディアが、多くの人が「人類の悲劇」と劇的に呼んでいるこの地震に対する日本人の反応を(訳注:自分たちの価値観で)批評することなく、ニュースを届けることができるのなら、私たちは真の理解と深い思いやりに一歩近く近づいたことになるだろう。

数千人の人々の命が失われてしまっているのかもしれないというのに、こんなふうに感情が抑制されているのは、たぶん国中が衝撃の中にあるせいかもしれない。裂けるような悲鳴があがる直前、無意識に大きく息を吸って止めている状態なのかもしれない。
そうでなければ、たぶんこれが、数千年の長い歴史の中でも最悪の瞬間の1つを乗り切らねばならないこのときに、しなければならないことをちゃんとできるように、長い年月をかけて日本人が磨き抜いてきたストイシズムなのだ。

はっきりとしていることが1つある。
今、自分が見、味わい、吸い込み、匂いを嗅ぎ、感じているものが悲しみ以外に何もないというのに、遺体を捜索して収容し、瓦礫を取り払い、再建への計画を心に描くことなど、ほぼ不可能に近い。
だからこそ、未来が見えないとき、足を交互に出して前進する力を集めるために、感情を捨てることもときには必要なことなのだ。

泣くときは、批評も分析もない、日本人たちだけの場所で日本が泣きたいときに泣かせてあげよう。私たちは、良い友達として、日本人のそばに立ち、彼らが必要なものを提供しよう。たとえ、日本人が望むものが、(訳注:アメリカ人のように)顔をうずめて泣く友人の肩ではなく、ただの(一見、冷静な)握手だとしても。
彼らの悲しみは、耐えねばならないものなのだ。長い経験から、彼らは、この苦痛を耐えるにはどうしたらいいのか一番良い方法を知っている。(つづく)



長いので2つに分けてアップします。


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