2011年03月15日

海外記事 - 気遣いと礼儀:巨大地震に傷ついても、失われない日本人の国民性 -

本日は、記事を2本。

まずはニューヨーク・タイムズから。


日本に心を寄せて、そして賞賛を。

私たちは今日、みなが日本に心を寄せている。恐ろしい地震が日本で起こったのだ。これは、日本の地震計測史上最悪の地震だった。

しかし、ニューヨーク・タイムズの東京支局長として日本に住み、1995年当時、神戸の地震(6000人以上の人たちが亡くなり、30万人以上が家を失った)を報道している私は、こう言わなければならない。
この数日、この数週間の日本を見ていろ、と。私は断言しよう。私たちは、ここでもまた日本から学べるはずだ。

私が言っているのは、日本政府の地震対策の上手さのことではない。
1995年の地震の際、日本政府は救援の取り組み方を完全に誤った。
政府の規制機構は、他国から送られたタイレノール(訳注:アメリカで市販されているアセトアミノフェン系解熱・鎮痛剤)や捜索犬を押収してしまったのだ。地震直後の混乱の数日、まだ瓦礫のしたには生きている人たちがいたが、日本政府の無能ぶりのために、死ぬ必要がないのに死んだ人もいた。

だが、日本の人たちとなると、その忍耐、禁欲ぶり、秩序といったら、まさに高貴であった。
よく使われる日本語に「我慢」という言葉がある。これに相当する英語は実はないが、「toughing it out」(がんばり抜く)が多少、近い。
神戸の人々の行動は、まさにこの我慢だった。勇気をもち、団結し、みな共通の目標に向かう決意を抱いていた。私たちは、これに畏敬の念を抱いた。

日本に住んでいた数年間、私はしばしば日本の秩序や礼節に感動したものだが、神戸の震災のときほどの感動はない。
神戸の港はほぼ壊滅し、街中の店の窓ガラスが割れていた。私は、略奪事件や救援物資を乱暴に奪い合う光景がありはしまいかと探していて、ついに2人組の男の強盗に遭ったという店舗経営者を見つけだし、喜んだ。
私は彼にこう尋ねた。「同胞である日本人が、災害の隙に乗じて犯罪を起こすことに驚きましたか?」。すると、彼は驚いた顔をし、こう答えた。「日本人の話じゃないです。外国人でしたから」。

日本には最下位層の人々もいれば、見下されている民族もいる。
だが、他国と比べると、日本には極端な貧困層はほとんどなく、みな共通の目的意識が強い。中産階級が非常に多く、企業の重鎮たちは伝統的に、羽振り良く見られることを嫌がる。
こうした共通の目的意識が日本の社会的な基盤であり、特に自然災害や危機の際に目に見える形で露わになるのだ。

私は誇張はしたくない。日本の礼節は、学校や職場のいじめ問題、違法行為から利益を得ているヤクザのようなギャング、賄賂を贈ることで納税者から金を吸い上げようとする政治家や大手ゼネコンといった問題を覆い隠すものでもある。

しかし、神戸の震災後、そのヤクザですら、被災者たちに物資を供給するカウンターを設置したのを見たときは衝撃だった。日本社会の基盤は決して崩れることはなかったのだ。いや、皺すらついていなかった。

こうした禁欲主義は、日本の言葉にも組み込まれている。人々はいつもこう言う。「しかたがない」と。つまり、「it can’t be helped」ということだ。そしてまた、相手に対して最もよく使われる言葉の1つに、「がんばってください」がある。これは、「tough it out(がんばりぬいて)、be strong(強くあれ)」。

自然災害は、日本の「運命」、つまり「fate」であると考えられている。この運命と言う言葉は、運動(movement)と命(life)という漢字を組み合わせたものだ。
私は、前に読んだ古い報告書を思い出している。16世紀のイエズス会修道士が書いたものだったと思うが、地震で壊滅した村で、地震から数時間のうちに農民たちが家を建て直し始めたという。

不平を言わず、みんなで復興する。これは、日本人の魂に染み付いているものだ。

短い間だが、私たち一家は日本の学校に長男を通わせていたことがある。小さな子供たちが真冬ですら半ズボンで学校に通わねばならない光景を私は決して忘れることはないだろう。なぜこうしたことをするのかと言えば、これが人間を作るのだという考え方からなのだ。

当時、私は、子供たちに風邪を引かせるだけだと思っていた。だが、これは「我慢」を教え込むための、一歩踏み込んだ努力だった。
そして、この「我慢」こそ、第二次世界大戦後の日本の復興を助け、1990年頃にバブル経済がはじけたあとの「失われた10年」を耐え抜かせたのだ。

実際、日本人はもう少し不平を言ったほうがいいのではないかとすら思う。たぶん、そうすれば、日本の政治家だって、もっと人々の反応に敏感になろうというものだ。

もう1つの要因に、自然との関わり方があるかもしれない。アメリカ人は、自然との関わりを「対立」と考える。自然をこちらが管理してやろうとする。
これとは対照的に、日本人は、人間は単純に自然の一部なのだと考える。自然の動きに合わせようというのだ。これは、歴史を通じ、何度も何度も繰り返し起こった地震に対してもそうだ。

1923年の関東大震災では、10万人の人々が亡くなった。
natureを表す日本語は「自然」と言うが、これは近代の言葉で、100年ちょっと前のものだ。というのは、もともと伝統的に、彼らには自然という概念を言葉で表す必要がなかったからだ。
神戸の震災後、Time誌でエッセイを書いたときも、同じようなことを何点か私は指摘し、17世紀の偉大な俳諧師、松尾芭蕉の俳句で締めた。

The vicissitudes of life.
Sad, to become finally
A bamboo shoot.
(うきふしや 竹の子となる 人の果)

日本の復興力と忍耐の中に、私は高潔さと勇気を見る。そして、これから、今度はみなさんがそれを目にすることになる。そう、日本の社会基盤、その強靭さ、復興力がきつく結び合って輝くときを見ることになるのだ。

そして、これは直感だが、おおかたの日本人が一丸となって復興に取り組むだろう。ウイスコンシンからワシントンに至るまで、対立し言い争って同胞が食い合う米国の政治モデルとは対照的に。

たぶん、私たちはもう少しぐらい日本から学べてもいい。
私たちは日本に心を寄せ、この悲劇的大地震にあたって心からお悔やみを言う。だが、同時に深い賞賛もまた、彼らに送るのだ。●



次はロスアンゼルス・タイムズから。


巨大地震が起こっても、日本文化の完璧なマナーにはほとんど影響なし。

家具の下敷きになって負傷した女性が、迷惑をかけたことを謝っている。
こんな最悪な状況の中ですら、他人を気遣うという国民性が表れる。だが、これはほんの一例にすぎない。


東京からのレポート。― 彼女は年老い、独りだった。傷つき、苦痛の中にいた。
巨大地震が襲ったとき、重い本棚が山下ヒロコの上に倒れこみ、彼女は身動きがとれなくなったのだ。足首が粉々になっていた。

救急隊員たちがようやく駆けつけ、懸命の救助作業を数時間、続けたその後、山下は「どんな人でもそうします」と彼女自身が言った行動をとった。
彼女の義理の息子が、あとになって話してくれたことによれば、彼女は隊員に面倒をかけたことを謝り、先に助けなければならない人はいなかったのかと尋ねたという。

燃え上がるビル、水に沈んだ沿岸の町、損壊した道路、いつ不安定な状態に陥るともしれない原子力発電所。日本の記録史上最悪の地震の爪痕だ。
だが、これほど最悪の状況ですら、他人を気遣うという、日本人に深く根付いた国民性にはほとんど影響がなかった。

日本語は、儀礼上の謝罪に満ちている。あまりにしばしば謝罪の言葉が出るため、ほとんど意味がなくなるほどだ。人に迷惑をかけそうになったらすぐ、「すみません!」なのだ。謝罪の中には単なる形式にすぎないものもある。
しかし、危機を迎えた今、こうした礼儀が、一国を一つに繋ぐ接着剤になりえる。

金曜日のマグニチュード8.9の地震は衝撃的で大混乱を呼ぶものではあったが、自分自身の不安を赤の他人に抱え込ませようなどと考える日本人はほとんどいないだろう。

たとえば、東京までの長いフライトの間のことだ。飛行機が本当に首都空港に着陸を許可されるのかどうかは、最後の数分までほとんど五里霧中だった。
飛行機の中で、50代のビジネスマンが隣席の人に、今後のプランや不測の事態になったらどうするかを熱心に尋ねていた。

どこに滞在するのですか?なぜそこに?ええ、まあ、今度の引越し先は前より良いところなんですよ。あなたは誰かとお会いになる?引き受け先のかた?

が、9時間のフライトの最後になって、彼はほとんど戸惑ったような小声で打ち明けた。近縁の親戚が行方不明になっていること。彼女が無事なのかどうか確かめるために、彼が北へ、津波に襲われて浸水した地域へ向かおうとしていること。

彼はシートベルトをいじくり、心ここにあらずといったふうにあたりを見回すと、彼女が生きていることを確かめられるのでしょうかと、咳き込んだような声音で言った。

社会規範に起因しているはずの、こうした重く息苦しい従順さを快く思わない人もいる。
現代日本でさえ、本音を言ったり、あからさまに自分の要求を告げたりすれば、仲間はずれにされることもありうる。若者なら特に、歌舞伎のごとく門外漢にはさっぱり理解できない、こういう堅苦しい行動慣習に窮屈な思いをするときだってある。

だが、この国では、― 公共の場所で鼻がグスグスしだしたら、風邪を人に伝染させないようにマスクをつけるこの国では、ほとんどの人が自分たちの不安を人に見せまいと堅く決意しているように見えた。特別、客商売の人々はそうだった。

「自分の恐怖をお客様に見せないように、必死でした」とタジママサキは言った。彼は、東京の北、宇都宮にあるホテルのスタッフだ。

が、地震地帯に近づくほど、修練された礼儀正しさにもヒビは入った。東京の北、約130マイルにある郡山のガソリンスタンドでは、燃料が切れたことへの不安から興奮する客もいた。12年間、スタッフをしているサトウケンジは、皆を落ち着かせようと何度も謝罪を繰り返した。
「すみません。もうガソリンがないんです。本当にすみません」。

とはいえ、他の場所では、秩序と冷静さという根っからの本能が、厳しい最中にも保たれた。東京や東京近郊では、いつもなら時間通りの、頼りになる輸送手段の多くが、地震によって不通になった。
しかし、主要線のいくつかにようやく電車が現れたとき、そこにあったのは、いつもの出勤風景と変わらない、秩序だった乗客の列だった。

そして、電車に乗り込むと、人々は静かに座り、着信音を聞き取れなかっただけではないかと祈りながら、携帯電話を見つめた。

「押し合いへしあいなんて野蛮な行動ですし、そんなことしてなにかいいことあるんでしょうか?」。東京のはずれ、混雑した電車に妻が乗るのを助けながら、そうサエセキ・コージョーは言った。

都心では、私が地震のときにどうしていたのかと尋ねると、ガラガラの地下鉄に乗った乗客たちは驚いて、当惑したような表情を見せた。
もし、私が答えを急き立てれば、彼らはそのときの話をしてくれたことだろう。何時間もエレベーターに閉じ込められていた。高層ビルが海上の船のように揺れている間中、デスクの下にかがんでいた。あるいは、窓の厚い安全ガラスに突然、蜘蛛の巣のようなヒビが入るのを見た。

駅に電車が入っていったとき、私の周りで数人はまだそんな地震の話をしていた。駅は、電車のドアとプラットフォームの間に小さな隙間が空いていた。すると、そこで電車を降りていく一人の乗客に向かって、電車の中の人々みんなが口々に声をかけたのだ。「気をつけて!」(Be careful!)と。●



世界各国から支援の表明が続々と上がっているようです。
本当に、ありがたいことでございます。

自衛隊の皆様の懸命な救助活動にも頭が下がります。すでに一万人近いかたがたが自衛隊の皆様によって救助されたとか。一人でも多くのかたがたが無事に救助されることを願っております。


募金先のまとめがこちらにございます。

赤十字がまだ準備中のようです。


posted by gyanko at 12:00 | Comment(77) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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