2011年07月06日

海外記事 - 今週のアメリカの萌え:日本 -

以前、お送りした『今週の日本の萌え』ですが。
姉妹コーナーの『今週のアメリカの萌え』を本日はお送りいたします。

こちらから。

今週のアメリカの萌え:日本

1億2000万人が住む国。深く長い歴史と、複雑で美しい言語。
だが、アメリカ人にとって、日本はすべてがしばしば、不安と幻想と、そしてそう、神経症まで引き起こさせる場所になってしまうことがある。

日本の多くのものが、アメリカ人にとってはなじみが深い。野球、ロック、ジャンクなファーストフード文化、テレビや車のような日本製品。アメリカ人が飛びつくものばかりだ。

だが、日本は、アメリカとはちがう国だ。

日本には、アメリカ人の興味をひくのに十分な親しみやすさはある。だが、困惑させる微妙な差異もまた十分にあるのだ。

アメリカ人が日本に魅了されるのは、今に始まったことではない。日本と米国には、共有している歴史だってある。
しかし、アメリカ人の日本を見る視線は、生きている時代の影響を受けて大きく変わる。日本の魅力自体は、決して変わらないものだというのに。

19世紀、アメリカ人は、当時の日本の政府が弱体化していたところへつけこんで、強制的に日本を開国させた。日本は17世紀以来ずっと、西洋からあえて隔絶した国だった。

鎖国時代、外国人は日本に入国することができず、日本人もまた、死刑という刑罰のもと、出国することは許されていなかった。長崎の「出島」と呼ばれる人工島に出入りを許されていたのは、オランダ人と中国人である。
日本は世界から切り離され、内側を見つめながら自国の思うがままに物事を処していた。

ゲーム翻訳者であり、『Yokai Attack!』や『Ninja Attack!』の共著者であるマット・アルトは、日本はタイムカプセルだったのだと言う。
「僕が知っている限り、日本は銃使用を実際にやめた唯一の国です。(訳注:戦国時代の銃使用から江戸時代の)剣の使用へと逆行していったんですから」。

日本は自国の判断で動き、外国の帝国主義に激しく抵抗した。リスクを分散させ、何世紀にもわたって外国人を排除してきた日本の決断を「外国人嫌い」と呼ぶ人もいる。だが、過去、日本以外のアジア諸国で何が起きてきたのかに目を向ければ、……そう、つまり植民地化政策のことだが、これは賢さだと僕は思う。

19世紀後半、日本は、刀を携えた侍、慎しみ深い芸者、そして浮世絵の時代だった。こうしたものが外国人を異国情緒に浸らせ、やみくもに日本を崇拝させた。
ジャパナメリカ 日本発ポップカルチャー革命』の著者、ローランド・ケルツは、「アメリカ人や他の西欧人にとって、エキゾチックで心を動かされる夢の世界として、日本という国は長く存在しつづけていると思います」と語る。
「エドワード・サイードが示したように、オリエンタリズムとは、まったく違った文化的特徴をもつ、かつては遠い場所だった国に対する西欧の幻想からできています。西欧がファンタジーを描くための、何も描かれていないカンバスです。意図的に勘違いした解釈、意図的に繋がりをなくさせ、唐突に出現させたミッシングリンクなのです」。


訳注:
エドワード・サイード:1935年11 月1日 - 2003年9 月25日。パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。コロンビア大学比較文学、英文学教授。ポストコロニアル理論を確立。西洋におけるアジアや中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な野望を正当化する隠れみのとして作用してきたと主張した。

日本のアートやデザインに価値を求める「ジャポニズム」の概念は、ヨーロッパや、ホイッスラーのようなアメリカのアーティストに影響を与えた。きものや芸者が美術の世界に飛び出し、日本の建築やモチーフがフランク・ロイド・ライトを夢中にさせた。

訳注:
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー:19世紀後半のアメリカ人の画家、版画家。色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した。

フランク・ロイド・ライト:米国の建築家。近代建築の三大巨匠の一人。基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。

線、自然、そして平面すら強調する日本アートの視覚的な特徴は、(訳注:西欧にとって)一服の清涼剤だった。そしてまた、日本の人々自身も、自然と一体となり、自然界をより深く悟る人々として、西欧の崇拝の対象となった。

日本の近代化と工業化は急速だった。その中で、日本は、大規模な軍事施設を作り、自ら戦争へと進んでいく。が、一方で、日本の成長は、アメリカの人種差別主義に根ざした黄禍論という恐怖をかきたてた。(黄禍論とは、19世紀に米国に移民してきた中国人の急増に関連した用語だ。)
戦争のプロパガンダは、日本は機械のように働く労働者たちとして描いた。こんにちなお存在するステロタイプだ。このプロパガンダによって、アメリカ人をもっともっと必死で働かせようとしたのだ。

が、戦時下のステロタイプではあったが、これが戦後の日本崇拝への道を作った。大日本帝国の敗北後、月日が経つ中、日本女性は、身体的そして言語的な差異のせいもあって、再び崇拝の対象となっている自分たちに気づく。

ジョン・W・ダワーのピュリツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』に詳しいが、(訳注:戦後に)日本男性が人として下位に格下げになった一方で、日本女性は(西欧人にとって伝統的にこれが日本女性と見られていた「芸者」)は欲望と陶酔の対象だった。米軍人たちは、米軍の写真部隊のために高価なきものを着た彼女たちに群がった。


訳注:
ジョン・W・ダワー:米国の歴史学者。日本近代史。妻は日本人。吉田茂の研究で博士号を取得。マサチューセッツ工科大学教授。
著書『容赦なき戦争』では、戦争が苛烈になった一因を日米両国の有していた相手国への選民意識・蔑視意識にみとめる解釈を示した。
『敗北を抱きしめて』では、日本に民主主義が定着する過程を日米両者の視点に立って描き出した。

強姦事件を防ぐために、日本政府は、若い日本女性にだぶだぶの服をきて、親しげに自分を見せないように推奨した。進駐軍側も、秩序を保つ目的で政府主導の売春政策を打ち出した。『敗北を抱きしめて』に書かれていることだが、そこでは一日に50人の米軍人の相手をすることも珍しいことではなかったという。彼女たちの中にはノイローゼになるものもいれば、自殺するものもいた。

アメリカ人は日本のセックスに惹かれた。どちらかといえば、セックスが人々を惹きつけたのだ。
いや、セックスへの興味自体は自然なものだろう。健康的で普通のことだ。たが、日本のセックスにアメリカ人が夢中になったのは、伝統的な視点から見て、(訳注:歴史的あるいは宗教的)背景が不足しているせいだった。
つまり、セックスが、ほとんどのアメリカ人が根底にもつ同じ宗教構造でくくれないということだった。

日本では、セックスに対する罪悪感が浸透していない。一般的に言って、伝統的な性に関するタブーはアメリカより少ない。
裸はもちろん誰にとっても恥ずかしいものではあるが、恥ずべきことではない。むしろ、自然なものとしてとらえられ、家族や友達、同僚同士ですらいっしょに温泉に入る。

日本のポルノは(大多数のアメリカ人は日本のセックスをこれで知るのだが)性器は検閲するが、だからといって日本が上品ぶって裸にうるさいということではない。こうした日本の性は、特に(訳注:禁欲的な)ピューリタンを背景にもつ米国のグラフィック・ポルノと比べると対照的で、だからこそアメリカ人は単純に日本に「変態」というラベルを貼ってしまう結果になる。

が、ストリップ・クラブで裸の女性を見るために金を払うアメリカ人と、ナイト・スポットで合法的なフェラチオに金を払う日本人のどちらが変態と言われれば、たぶんどっちもどっちだ。ただ、少なくとも、日本は、うわべをつくろおうなんてことはしない。

戦後、日本という国の言語、文化、歴史に興味をもった軍人たちもいた。日本に駐軍していた米軍人の一人、ドナルド・リッチーは、その後、著名な日本映画専門家になっていく。日本にチャンスを見出し、企業を作ったアメリカ人ビジネスマンもいた。たとえば、セガもその1つだ。

その後、数十年の間に、戦時中に生まれたアメリカ人たちが、日本にまったくちがった光を当て始めていった。1950〜70年代にかけて、アメリカのカウンター・カルチャー、つまり、当初はビートニクスと呼ばれ、後にヒッピーと呼ばれた文化が、禅仏教や神道のような宗教を通じて日本を発見する。

1960年代になると、武道が根付きはじめ、ハリウッドですら『影なき狙撃者』(訳注:1962年)のような映画で空手を取り入れだし、映画をよく観に行くアメリカの観客を喜ばせた。
敵国としてロシアが日本にとってかわり、ハリウッドは気楽にフランク・シナトラにテーブルで空手チョップをさせた。この空手チョップは、それよりたった10年前には非アメリカ人的行為だと思われていただろうに。

1950年代ともなると、映画が、アメリカ人の日本への執着のしかたを大きく変えるものとなる。黒澤明はジョン・フォードのようなアメリカ人映画監督に心酔していたが、観客たちが見たこともない手法で、ハリウッドと日本とシェイクスピアといったちぐはぐなものの影響を1つに統合してみせた。

日本はアメリカ文化に近かった。だが、本当に本当に遠くもあった。黒澤がやったことは、カウボーイを連れてきて刀をもたせたなどというような単純ことではない。映画の構造もテーマ追求も、まったく新しい方法だった。こうしたことが、アメリカの子供たちが『NINJA GAIDEN』を楽しむ時代の土台を作り、アメリカの1つの世代が『ベスト・キッド』を見て空手を始める前触れとなったのだ。

アメリカ人が日本に魅了されるのは、似ていながら違う回転をもっているところだ。たとえば、『ゴジラ』だ。これは単なる『キングコング』の焼き直しではない。ハリウッド以上に、核戦争からのインスピレーションを受けている怪獣映画だ。
ちがっているのは映画のテーマばかりではない。日本がこだわったのは、細心の注意を払って作られたミニチュアのセットの中をゴジラの着ぐるみをきた人間がドカドカと歩き回るあたりだった。このミニチュアのセットは細部まで執拗なまでの注意を払われていたのだ。

1960年代に育ったアメリカ人は、地元の小さな映画館や深夜のテレビで放映されていたひどい品質の吹き替え映画で、日本の怪獣映画を定期的に摂取していた。日本のアニメもまた1960〜70年代にかけて侵攻を開始していて、アメリカ人が今まで見たことがないロボットだとかレーシング・カーだとかを運んできた。
そして、これは、20世紀に日本がもたらした最も重要なポップ・カルチャーと言えるものの出現で頂点を迎える。そう、ゲームだ。

アタリ2600には年齢的に間に合わなかったが、Nintendo Entertainment System(訳注:NES。日本のファミコンの米国版)のときには十分に成長していた世代にとって、日本といえばゲームの代名詞だった。
子供の頃、僕は、任天堂やセガが日本の企業だと知らなかった。ちょうど、今の日本の子供がたぶんマクドナルドからアメリカを想像しないように。80年代がのろのろと進むにつれ、徐々に僕は真実を知ったのだ。

80年代は日本にとって、経済が爆発した猛々しい時代だった。日本語をまったく知らない人間であっても、日本に行けば英語を教えることで大もうけできるというのは、アメリカ人なら周知の話だった。
1970年代の日本バッシングの後、日本はビジネスの設計図に組み込まれ、ハーバードでMBAを取るものはみな「日本的精神」からビジネスをどう見るかというあたりで優位に立とうとした。

空想の世界でも、『ライジング・サン』であれ、『ガン・ホー』であれ、そして『ダイハード』ですら、日本企業が支配していた。

そしてバブルがはじける。1990年代は、日本に失われた10年を作り出した。日本の子供たちが両親たちより酷い暮らしをするほかなくなるだろうとされた時代だ。
日本の労働倫理は、戦後ずっと世界に言い広められてきたものだった。はじめは単純に「多忙に仕事をこなす」という伝統として解説され、日本企業が米国企業ほどやせ細っていないことも同時に喧伝されていたものだった…。

が、経済は行き詰っていったかもしれないが、1990年代、日本はクリエイティブな爆発を見た。音楽、アート、そしてゲームだ。
90年代後半には、昔からの親日家、ウィリアム・ギブスンのような人々によって、日本は究極のクールになる。いわく、未来を見たいなら、日本に行け。未来としての日本という概念は、未知のものだった。

日本は未来ではない。日本はいつだってシンプルに日本だ。そして、日本はいつも変わりつづけている。

1990年代には、ロボット人気が下火になり、村上隆や森万里子といったアーティストたちのおかげで、日本のアートが如才がなく風刺的なものとして捉えられるようになっていた。

インターネットが爆発的に普及する前の暗い90年代であっても、コーネリアスやカヒミ・カリィといった日本のミュージシャンたちがアメリカの主流の音楽雑誌に登場しはじめ、MTVに出演さえした。
日本の雑誌『FRUiTS』は原宿のワイルドなファッションを見せつけ、ニューヨークやロスアンゼルスの本屋には輸入された『FRUiTS』が並びだした。

こうしたものはどれも、日本のポップ・カルチャーの主流ではない。サブカルチャー的な流れだ。だが、アメリカ人はそうしたことをよくわかっていなかった。ただ、日本は突然、ものすごくクールなものになっていたのだ。

日本の音楽やファッションは、アメリカ人にも親しみやすい。ほとんどアメリカ的だ。だが、同時に信じられないほどにちがう。解釈のしかたがちがうのだ。たとえば、ビーチボーイズの音楽が、ビーチボーイズのメンバーがかつて聴いていた音楽とはちがうように、だ。
コピーではなかった。それは新鮮で、オリジナルで、新しかった。90年代に日本を発見した人々にとって、この日本という国はクールの中心地だった。

そしてまた、90年代には、あの『ポケモン』が日本と世界を席巻する。キュート、あるいは「かわいい」というコンセプトがアメリカの学者たちによって見出され、議論された。

ケルツは言う。「『ポケモン』やその他のゲームの爆発的な成功によって加速した、この新しい「日本好き」がこれまでときわだって違う点は、(訳注:これまでの伝統的な日本文化ではなく)非常に現代的なものだということです。アメリカ人もそれ以外の西欧人も、日本に色、光、遊び心に満ちた楽しみ、率直さといったものを見ています」。

キュートなキャラクターは新しいものではない。だが、突然、多くのアメリカの活字が、かわいいものへの萌えに費やされ、日本では大人ですら(そう、大人!)マンガを読むことを指摘することに使われた。

ケルツによれば、日本のポップ・カルチャーは西欧人の好みなど相手にしていないという。
「日本人のために作られた日本人のものなんですよ。なのに、まだまだ支配的だけれども、疲弊してくたくたになったアメリカのポップ・カルチャーの代わりになるものとしてアメリカに到着したんです。『ハローキティ』は新鮮に映る。でも、ミッキー・マウスはそうじゃないっていうふうなね」。
ケルツはこうも言う。
「日本のポップ・カルチャーは、新鮮さを感じるには十分に異質。でも、気安さを感じられるほど十分に親しみやすいんです」。

こうして、ロボットやニンジャにはそんなに興味がない、新種の「日本好き」たちが生まれた。
1980年代にはアニメ・ファンたちが交流する手段がなかったと、アルトは言う。「ファンたちの組織が一握りはありましたが、東か西海岸の大都市に限られていましたし、交流もニュースレターや、VHSテープの交換とか、そんな感じでした」。

日本文化をかつてないほど広めたのは、インターネットだった。アメリカ人でも、マンガやアニメをすぐに読めるため、ファン層はさらに拡大し、繋がりあい、交流ができるようにもなった。
アメリカのアニメ・ファンダムは格段に社交的になり、アニメやコスプレのイベントの急増に繋がっていった。

だが、インターネットはまた、日本のポップ・カルチャーで最も問題の多い、ニッチな要素にもスポットライトを当ててしまった。たとえば、未成年キャラクター、セックス、暴力、ポルノといった、ありとあらゆるものだ。

米国にも、相当な量の危ういニッチなコミックや、ポルノ映画、ゲームがある。ただ、日本は、アメリカ人が社会を見直すときの「スケープゴート」になってしまったのだ。日本語も日本文化も理解できてないまま、「これは好きじゃない。これは間違ってる」という話になってしまうのは、そのせいだ。

確かに、中にはまちがっているものもあるのかもしれない。だが、その大半はニッチなもので、つまり日本のほとんどの人はまったく知らないものだ。
ただ、日本という国はアメリカとちがって、伝統的に物事に対して一方的な判断は下さない。いろいろな意味で無関心ですらあるし、表現の自由を大事にもしている。
(それゆえに)1970年代もそうだったように、日本はしばしばアメリカ人に罪をなすりつけられ、ムチ打たれる存在になってしまう。

「日本には一見してユニークな特徴がたくさんあります。しかも、今私たちが生きてる、情報の伝播を中心に動いている世界にぴったりの特徴です」とアルトは言う。
「アメリカ人のスタンダードから見て、奇妙に思えるものを選んで拾うことなど簡単ですよ。『ハロー・キティ』のバイブレーターやら、触手ポルノやら、『ラブプラス』のキャラクターと結婚した男性やら、シンプルなスナック菓子ひとつとってもそうです」。

つまりだ。日本に萌えたいというのなら、その背景を汲み取り、なぜそうなのかという説明もできなければいけないということなのだ。

アルトによれば、日本文化はパーフェクトではないという。彼は正しい。完璧ではない。
が、彼はまた、外国人が不平を言う問題の90%は、背景や言語がわかれば説明がつくことだとも言う。

日本はユニークな場所だ。奇妙なものも素晴らしいものの両方たくさんある。不当に扱っていい国ではない。
日本に萌えることだって何も間違ってはいない。日本はいつだってアメリカを萌えさせてきた国だ。

ただ、間違っているのは、その文化の前後関係を理解しようともせずに、日本を指差し、そこに奇妙だというレッテルを貼ることだ。
確かに、日本は奇妙だ。だが、アメリカのほうがはるかに奇妙な国なのだから。●



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posted by gyanko at 22:42 | Comment(231) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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