2009年06月20日

葛飾北斎、ワシントンへ行く その4

早速、第四回、葛飾北斎エントリです。



北斎の自然に対する感性は、1821年の版画、『元禄歌仙貝合』に浮かび上がってくる。一群の鶴が浜辺で土手を背にして休んでおり、打ち寄せる波が海霧の中に消えていく。もっと圧巻なのは、『蟹尽し図』である。半抽象的なこの絵は、大きいものから小さなものまで、微細に描かれた何種類かの蟹が一面に這い回っている図である(こちらの北斎のページ内のBrush & Blockから見れます)。


↓『元禄歌仙貝合』の『あし貝』

genrokucrane.jpg


北斎の興味が、浮き世を超えた世界の人々にも及んでいるのは、1836年の『百人一首うばがゑとき 源宗于朝臣』の中ではっきりとわかる。この絵では、火の煙が、垂れ幕のような浅色の流れになって風景を遮っている。


↓『百人一首うばがゑとき』の『源宗于朝臣』

minamotoason.jpg


北斎の怪奇なものへの強い傾倒は、1831-32年の版画シリーズ、『百物語』の悪霊じみた骸骨で見ることができる。青に杏色の蚊帳から出ている骸骨は、妻の密通の相手に殺された男であり、妻とその密通の相手を捜しているのである(訳注:小幡 小平二。山東京伝の『復讐奇談安積沼』や鶴屋南北の『彩入御伽草』の登場人物)。怪奇映画の古典の初期のバージョン(訳注:『生きている小平次(1957)』)では、最後に、妻とその恋人の寝床の回りの蚊帳に指をかけている夫を描いている。


↓『百物語』の『小はだ小平二』

koheiji.jpg


また、『百人一首うばがゑとき』の数点の素晴らしい小品も展示されている。北斎の複合的な多才さと、大きさにこだわらずに、思い通りに画面を操る能力を強調している。


展覧会の残りの半分は、北斎の進化をより冷静に、テーマ面で辿っている。主題は、人間、自然、神々。ジャンルは、肖像、風景、日常だ。作品は、ほとんどが注文されて描いたものであり、巻物、掛軸、屏風といった、市場や大衆の好みの騒々しさから離れて描かれているものだ。

特に、浮世の美女を描いた『年始回りの遊女図』では、細かく描かれた衣装の豪華な重なりに心奪われる。この図の門下生は、もちろんルノアールとモネの身なりの良いパリジェンヌの全身像である。



↓『年始回りの遊女図』

yujonenshi.gif


時が経つにつれて、北斎の画の様式はしばしば機械的になり、そのせいで、あちこちに散見する、ささっと描いた絵の具の小品の評価が上がる。1861年の掛軸、『潮干狩図』のダイナミックな人物像と広く水晶のように光る風景(初期のダリを思い出させる)と、過度に洗練された1830-32年の六曲一双の屏風『富士の見える田園風俗図屏風』に現れているノーマン・ロックウェル風の可愛らしさを比べてみてほしい。


↓『潮干狩図』

shiohigari.jpg


また、最後のギャラリーには、きつくぐるぐる巻きにされた鬼の魅力的な絵(訳注:たぶん『着衣鬼図』)があり、1806-08年の全身像の掛軸『六歌仙』の数点もある。『六歌仙』は、重い衣装と繊細な顔が同じように重点が置かれて表現されていて、背景上の抽象的な波打つ線は、彼女の高尚な思考を示唆している。


↓『着衣鬼図』                      ↓『六歌仙』

onizu.jpg rokkasen.jpg


最後の掛軸は1849年の『雪中虎図』だ。1849年は北斎の死んだ年だが、いまだ衰えぬ力が見える。にやりと笑っている猫にも見え、頭をあげ、雪に埋もれた笹の葉の中から抜け出ようとしている。笹の葉は虎の爪の模倣であり、また、毛皮を示唆してもいる。彼は、王者のように自身に満足しているようだ。



↓『雪中虎図』

tora.jpg



前回から引き続き、錯綜しております。


どれも、前回と同じく、絵を見たまんま説明したあげく、感想も解釈もなく、文字数稼ぎなのか、日本映画にまで逃げてる。『生きている小平次』のラストがどうだったかなんて、そんな情報いらんと思うよ…。気になって調べちゃったじゃないかよ…。


細かいこと言うと、『蟹尽くし図』が半抽象とか、えええ?!ですよ。むしろ写実的な描写の絵じゃないですか。抽象ってどういうことだっけって考えましたから、一瞬。……でも、すぐ思い当たった。たぶん、このかた、カブトガニを知らないんですよ。だから、あれが抽象に見えたのかもしれない。


その他にも、ダリだの、ノーマン・ロックウェルだの。年代も画風もちがう画家を引き合いにだして、説明もせずに言い逃げ。「だって、なんとなく似てるって思ったんだもーん☆」とか言いそうだよ…。

次に、遊女図の影響がモネとルノアールが描いたバリジェンヌ。共通点は全体図だってことと、身なりが良い。もちろん、ルノアールとモネのどの絵なのかも指定はなし。だったら、先にゴッホを出したほうがまだいいだろう。別の絵とはいえ、模写してんだから!


ついでに言えば、『源宗于朝臣』。「北斎の興味が、浮き世を超えた世界の人々にも及んで」たから、描いたんじゃないと思うよ…。百人一首なんだよ。

「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば」。

『冬ともなれば、山里はいっそう寂しいだろう。人もこなければ、草木も枯れているのだと思うと……よよよ(T_T)』っていう、雅な宮廷人らしい源宗于朝臣の感傷的な歌ですよ。もはや、その枯れた雪深い山里で、活き活きと強くあれるのは、生き物を殺生する猟師しかいない、寂しく厳しい山の冬なのですよ…。


例外は、『雪中虎図』。でも、これだって、解釈の糸口に北斎の死っていうキーワードがあって、そこからなんとかクロージングにもっていってる。…お疲れさまって、むしろ声かけたくなるぐらいの錯綜っぷりです。


でもですね、このかたは悪くない。まあ、New York Timesに書いちゃったのは置いといて、たぶんですね、このかた、ものすごく一般的なアメリカ人なんだと思います。職業が画家ってだけで、特に浮世絵に興味はない。要はですね、これぐらいの感覚(もしくはこれ以下)が、少なくとも浮世絵に対するアメリカ人の感性なんだろうなあ、と。


で、ここからが、私的には本題です。もう一度、『神奈川沖浪裏』のこのかたの文章を引用します。


『神奈川沖浪裏』は北斎の晩年の作品で、今回の展覧会ではギャラリーでは目玉として前面に押し出され、展示されている。展覧会の最初の作品、とぐろを巻く煙と灰の中で空に浮かぶ、赤々とした燃えさしのような赤い肌をした悪魔の絵(訳注:たぶん『雷神図』)よりはわずかに恐ろしさはないとはいえ、荒々しい自然が描かれている絵である。

異常なほど精微な版画で『神奈川沖浪裏』に表現されているのは、まるで地球から押し出されてきた巨大な手のように、3艘の小さな船を巻き込もうとしている奇怪な形である。次々に襲ってくる泡の渦を見ていると、いっぱいまで伸ばされた多くの爪(噴霧の泡)が(訳注:地球から押し出された)空を飛ぶ土塊であってもおかしくないと思わされる。


雪をかぶった富士は低く、遠く、ほぼ、もう1つの波のように見える。しかし、この有名な名所は、舟上で慌てふためいている漁師の視界の端に映る、乾いた陸地の切れ端にちがいないのだ。



↓『神奈川沖浪裏』

北斎/神奈川沖浪裏【PP-30114】[ポスター]


第2回のエントリのときも書きましたが、日本人とは見方がちがう。けれど、これに限っては、アメリカ人らしい感性にあふれた解釈だと私は思うんです。想像力がある。共鳴はできないけれど、このかたの解釈は生き生きしてる。


このかた、これだけは、自分の側に引き寄せて、噛み砕けたんだと思われます。他のは入り込む入口が見つからずに右往左往したのに、これだけは違った。それはどうしてなのか。


まず、このかたの『神奈川沖浪裏』と『雷神図』の解釈部分を読んで最初に思ったのは、パニック映画みたいな感じ方だなってことだったんです。

つまり、これ、映画だったら、すごいシーンだし、わかりやすいんだってことです。このかたの解釈を大袈裟に演出すれば、こうです。

「陸が見える!あそこまでがんばるんだ!」
「無理よ!波がまたくるわ!普通の波じゃない!これは怪物だわ!」
「諦めるな!キャサリン!富士が見えるだろ!漕ぐんだ!」
「ジャック!」
「キャサリン!」


このまま、フキダシに入れても、結構しっくりきませんか。私はきました。あり、だなって思いました。


とどのつまり、解釈の糸口は、『神奈川沖浪裏』のダイナミズムなんでしょう。一目でわかる躍動感。緊迫したドラマ性。もうハリウッド映画のクライマックス的と言えばいいのか。


昔、三船敏郎が大変海外で評価が高く、海外の映画にも数々出演しているのですが、これは黒澤明映画の主演というばかりでなく、三船敏郎の演技の「ダイナミズム」と「わかりやすさ」であったと言われています。


要は、ただですらわからん日本人なのに、内省的で繊細な演技されてもわからんのですよ。大袈裟に言えば、怒るなら「なにおおおお!!!くそおお!!!」ぐらい、喜ぶなら「そうか!!!がははは!」。言ってしまえば、『七人の侍』の菊千代です。


これはもう浮世絵だっていっしょです。日本人が百人一首と『源宗于朝臣』の絵に心を寄せるようには、彼らは寄せることができない。当たり前です。

逆に、『神奈川沖浪裏』にはアメリカ人にとってわかりやすい、かつ非常に好みにあった世界がある。『凱風快晴』もそうです。デカイ、ダイナミック、わかりやすい、三拍子揃ってる。これだったら、彼らのスタンスで解釈できる。


私は、このかたのレビューを読んで初めて、海外の人がどうして『神奈川沖浪裏』を赤ちゃん用ボディスーツにできるのか、わかりました。極論言えば、『ゴジラ』みたいなもんなんだと思います。江戸の粋とか関係ない。


↓『凱風快晴』

パズルの超達人 2016ピース 凱風快晴<冨嶽三十六景> 23-528


おそらく、一般のアメリカ人にとって、日本文化への真の理解なんて到底、無理だとは思います。日本だって、理解のために別にひよる必要もない。わからないから、興味があるのだって万国共通。

けれど、切り口が探せれば、お互いに思わぬ驚きや発見がある。食べ合わせにこだわらない見方もあるとわかる。文化がちがうっていうのは、面白いもんだなあと今回つくづく思いました。


長くなってしまいましたが、言いたいこと言えて満足しました。たぶんここまで読んでくれているかたはほとんどいないだろうなあ……。ありがとうございます。


今日の結論。
アメリカにモノ売るなら、デカくて、ダイナミックで、わかりやすくて、でもってアメリカにないものがいいよ☆ってことで。



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posted by gyanko at 21:00 | Comment(5) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
  1. 海外翻訳系の某ブログのコメでここに辿りつきました。
    この種のブログはマンガやアニメをテーマにした所が多いですが、私はこういう記事を読むのがかなり好きです。

    この記事、浮世絵の知識はまるでない私ですが興味深く読ませていただきました。
    NYTimesはちょっと酷いですね
    パニック映画風の解釈では?という評価には笑わせてもらいましたw
    確かにそうですねw
    Posted by takeone at 2009年08月03日 08:41
  2. 鉄棒ヌラヌラ先生・・・
    Posted by   at 2009年08月21日 04:22
  3. あちらのとらえ方もそれに対する評釈も面白かったです。
    どんな印象を持とうと各自の自由だけど、プロであるならある程度の知識は持って解説して欲しいものだなあ。
    Posted by at 2009年12月01日 21:57
  4. 興味深い考察でした。僕も常々思っていたことがあります。
    なぜにアメリカのエージェントだけは、ジャパンクールをプロモーションするにあたり、
    「このままではアメリカ人には理解できません。だから我々の分析に基づき、その通りに改変しましょう」
    と堂々と交渉してくるのはどうしてなんだぜ? …と。
    Posted by 銀候 at 2011年05月28日 22:06
  5. 興味深い考察でした。僕も常々思っていたことがあります。
    なぜにアメリカのエージェントだけは、ジャパンクールをプロモーションするにあたり、
    「このままではアメリカ人には理解できません。だから我々の分析に基づき、その通りに改変しましょう」
    と堂々と交渉してくるのはどうしてなんだぜ? …と。
    Posted by 銀候 at 2011年05月28日 22:07
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