レギュラー・シリーズの「今週の日本の萌え」でございます。
日本では不細工なグラビア・アイドルがなぜ伝説化するのか?
さてまたいつもと同じ今週がやってきて、21歳の藤子まいのフォト・セッションがまた開催された。ビキニというよりむしろ紐といったほうがいいストリング・ビキニはもうお馴染みだ。
藤子は少しも戸惑っていなかった。遺伝子が授けた彼女のスタイルに誇りをもっていた。
だが、カメラマンたちはにじり寄るようにして、彼女の顔ばかりにパシャパシャとシャッターを切った。
彼女は笑いながら「喉から心臓が飛びてそうな思いをします。でも、こういう、耐え難くはあるけれど興奮する状態が大好きなんです」と語る。
西欧は日本を「キュート、kawaiiの国」と呼ぶ。日本にはいたるところに、可愛らしい完璧なキャラクターがいるように思える。アイドルというキュートな少女たちが歌を歌い、写真のためにポーズをとっている国なのだ。
しかし、日本が萌えるのは、なにもキュートなものばかりではない。
日本は、藤子まいを可愛いとは言わないが、「ブスドル」、つまり不細工なアイドルと呼んでいるのだ。
日本では、萌えの対象になるグラビア・アイドルやモデルは、息を継ぐ間もなく次々に登場してくる。そこから頭一つ抜け出るために、なにか自身の特徴的なものを打ち出すグラビア・アイドルたちもいる。たとえば、メガネのグラビア・アイドルだとか、レトロゲーム・アイドルだとか。
藤子まいの場合、それは「可愛さ」ではない。
藤子にとって、「ブスドルの魅力は、完璧に癖になる臭いチーズのようなもの」なのだという。標準的な商品に飽きた日本のアイドルのファンたちが、彼女のとりこになっている。いや、むしろ、藤子まいのようなブスドルこそ、日本の美学の現代版だ。
グラビア・アイドルとはそもそも、ピンナップ・ガールのことだ。「グラビア」は元は、輪転グラビア印刷の略語で、雑誌、ポスター、ポストカードといったものに使われる印刷処理をいう言葉。
この「グラビア」アイドルたちは、マンガやゲーム雑誌の「グラビア」、つまり写真印刷部分に登場し、写真集やDVDを出す。全裸に限りなく近いこともままあり、10代のアイドル歌手たちより性的に露骨だ。
たとえば、藤子はミルクでずぶ濡れになってみたり、ソーセージを舐めてみたりもしてきた。だが、彼女がゴールデン・タイムのテレビ番組で取り上げられたのは、そのおかげではない。
ときは2007年。藤子は若く、……いや、それはもう不安になるほど若い16歳だった。
だが、若さや表面の輝きに重きを置く、とある世界では、それはすでに「若さの領域」の終わり、つまり「大人」になりかけている年齢でもあった。
疑問の余地があるとはいえ、こうした(訳注:若さを偏重する世界ではもう若くはないという)背景があったというのに、ネットの掲示板やサイトは、秋葉原や大阪のでんでんタウンの店で売り出された彼女の初DVDに注目した。
それは彼女のスタイルではなかった。年齢ですらなく、彼女が中学生だったことですらない(訳注:高校生)。
ネットで次から次に書かれる言葉がみな同じだった。「彼女はブスだ」と。
日本語では、「ぶ」という言葉の響きは良いものではない。我々(西欧の)人間にからすれば、「武士道(侍の規範)」、「武士(戦士)」、「ブライアン(まあ、僕の名前だけど)」というカッコいい言葉の印象が強いが、一方で、「ブーブー(豚の鳴き声)、「豚」、「不細工」、「ブス」といった言葉もまた取り沙汰され、何度も何度も使われる。
人を「残念な容姿」だと言うのは失礼なことだ。たとえ、犬に対してであっても、(容姿をそしることは)失礼だ。だが、ネットはネットである。藤子に対して、襲い掛かり、言葉の暴力を振るった。
「私のチャーム・ポイントは、もちろん顔です」と藤子は笑いながら言う。「ブスドルですから。間違いなく、私の欠点がセールスポイントになってるんです」。
実際のところ、藤子はそこまで不細工ではなかった(事実、ブスじゃない)。ブスというより、彼女は典型的なアイドルの鋳型にはまらなかったのだ。要は、小さな顔、小さな鼻、小さくて可愛い口、大きな目という鋳型に。
そして、もっと大きな影響があったのは、彼女が残念なヘア・スタイルの犠牲者だったこと。このせいで、彼女は、典型的ブスとされている、日本のコメディアン・トリオ、森三中の大島美幸と比較された。
そこへ、日本のテレビ局。やはりテレビはテレビだ。彼女に飛びついて、ビキニ姿の彼女を持ち出し、大島と比べた。
藤子は語る。「私はたった一人のブスドルなんですよ!」。
だがしかし、だ。日本では、アイドルにとって不細工は悪いこととは限らない。
東京大学の研究者であり、アイドルについての本を共著で出版予定のパトリック・W・ガルブレイスは、「少なくとも1980年代以降、生まれつきの美貌と素質に欠けていることを、日本のアイドル・ファンやプロデューサーたちは賛美してきました」と言う。
「プロデューサーという立場から言えば、アイドルの「才能」というのは完全に作り物です。代替品は簡単に見つかる。だから、アイドルは一生懸命努力するし、ファンにとっては近づきやすい、応援しやすい存在なんです」。
1980年代、多くのアイドル・グループが、可愛いけれど歌えないか、可愛くないけれども歌える女の子たちによって率いられていた。そうした「欠点」が、彼女たちの魅力の一部だったのだ。
日本という国は「美」に執着しているように見えながら、同時に「欠けている」ことにも魅了されているように思える。
名高いコメディアン・エージェンシー、吉本興業は毎年、最もハンサムな男性と美しい女性をランク付けするのだが、もちろん最も不細工な人のランク付けもする。
これはコメディアンばかりの話ではない。2ちゃんねるでは、アイドル・ファンたちが、AKB48で一番可愛いのは誰かを議論するだけでなく、一番不細工は誰かを言い合うのも知られた話。
今年の夏、日本のタブロイド雑誌、『BUBKA』も、AKB48で一番不細工なメンバーをランク付けした。一位は仁藤萌乃。僕は以前彼女にインタビューしたことがあるのだが、僕にとって彼女は不細工などではない。
↓仁藤萌乃。
が、Googleで彼女の名前を入力したときですら、最初の結果は「ブス」だ。
ブスと呼ばれること、特にネットでそう呼ばれることは残酷なことだ。あきらかに自尊心に関わる問題だ。
しかし、こうした痛烈な一撃のせいで、彼女に人々の気持ちが集まることが実際にあるのだ。
一見、可愛いだけのアイドルの世界だが、パッと見で推し量れるものではない。彼女は不細工だと言われてはいるけれども、だからこそファンがいる。ファンはそこが好きなのだ。
「より平均的で、近寄りやすく、より人間らしく見えるアイドルを作るには、さまざまな方法があります。たとえば、欠点やミスについて(訳注:アイドル自らが)語ることです」とガルブレイスは言う。
「多少、(訳注:ファンにとって)聞きたくない嫌ことになってしまう場合もあります。この場合、ファンを落ち込ませたり、(アイドルが)上の立場として立ちはだかっては、アイドル生命それ自体の終わりになってしまいますね」。
「とはいえ、多くのファンにとっては、アイドルの不完全さ、それプラス、他のアイドルと比べたときに個性的な資質があることが、アイドルの大きな資産なんです。「欠点があるのに愛されてる」んじゃない。正確には、「欠点があるからこそ愛されてる」わけです」。
ガルブレイスに言わせれば、藤子まいのようなブスドルは、この論理の極端な顕れだという。
この論理の根底にあるものこそ、まさに日本的だ。
「ヘタウマ」という概念がある。「heta(ヘタ)」とは何かが下手であること。他方、「uma」とは上手なこと、技術があること、美味しいこと、素晴らしいことを意味する。
この用語は、アートや音楽の分野で1980年代に使われ、のちに、書道でも、見かけは単純(稚拙なことすらある)なのに、実際は複雑な作品を指す言葉になった。
元メガデスのマーティ・フリードマンはかつて、「ヘタウマ」は日本のポップ・ミュージックでお気に入りの1つだと語ったことがある。
あまりにも単純すぎるように見えながら、実際は深く、複雑なのだ。
「ヘタウマ」は、日本の中核をなす伝統的美学、侘び寂びにも関係してくる。
西欧の芸術が「完全」に向かって奮闘したのに対して、侘び寂びは「質素」と「非対称」がともなった「不完全」、「未完成」にこだわった。
侘び寂びの美学として一番、理解と評価を受けているのは、つつましやかな日本の陶器、古い京都の茶屋、石庭だろう。
完全ではないもの、いつしか消え去るものへの愛情が、「ヘタウマ」へと尾を引き、そしてそう、不細工なアイドルにも響いていったのだ。
こうした(訳注:不完全=ブスを愛おしむ)流れが、藤子に嫌な思いをさせはしなかったかって?
最初はそうだったかもしれない。確かに、日本のネットは彼女に群がって襲い掛かった。
だが、そのために結果として、娯楽産業自体もが、彼女を否定してしまったのかといえば、だ。
ちがう。もしそうなら、藤子は今ここにいない。
「実際、ブスドルって呼ばれるのうれしかったですよ」と藤子は言う。「だって、ネットで検索するとき、探し方が2倍あるってことですから」。
藤子は、名前で検索しても、ブスドルで検索しても、結果のトップに出る。「普通はこんなふうに2種類の検索の仕方をもてないでしょう。だから、私はすごくラッキーなんだって考えてます」。
今、日本では、藤子は「伝説のブスドル」と呼ばれている。
「みんなが私の名前を忘れても」と藤子は話す。「ブスドルという言葉は覚えているかもしれない」。
そう、そして、もし人々が「ブスドル」という言葉を忘れても、彼女の最新DVDが出れば、その言葉がデカデカと貼り付けられている。
藤子は、侮蔑的なあだ名から逃げることなく、そこに自分だけの特技を見出した。藤子は、その侮蔑を抱きしめたのだ。
彼女が飛び込んだときに上がった水しぶきは、もっと多くの「どうってことない顔の女の子たち」に扉を開いた。
藤子にとって、ゴールは日本のバラエティ番組のレギュラーになることだ。日本のバラエティ番組には、ユニークな特技をもった有名人たちでひしめいている。水着で踊ってみたり、格闘ゲームにちなんで芸名を名乗ったり。
だが、彼女の不完全さ、彼女の欠点と考えられているものは、(訳注:侘び寂び同様に)はるかに奥行きがあり、そしてまた実に移ろいやすいものなのだ。●
前回の八重歯の記事と比較すると、感慨深いものがあります。
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タグ:今週の日本の萌え
侮もありえるな
期待してます。
記事への反応も期待してます。
一般的にBSかもしれないけど、その人のもつ美しさってのは千差万別だしね
ただ欠点があっても魅力的なのが良いわけで、ただのブスは御免です
ブスってのはトリカブトの旧名
毒で表情筋がマヒして、無表情になることから不美人の形容に使われるようになった
アイドルってことが重要でタレントじゃ意味ないんだろうな
ブスなら誰でもいいわけじゃない
ありがとうございました。
でも、こういう不完全さに惹かれるってのは日本人特有なのかな?
完全なものは素晴らしいと思うけど、ある意味単純ですぐ飽きそうだよね。
見た目だけで中身空っぽとか興味ないと思うぞ
よくある平凡顔って感じか
でもダメなのが愛らしいっていう感覚は海外でも存在してるとは思うんですけどねえ。
ちょっと違うのかな。日本独特のなにかがあるんでしょうかねえ。
ちょっとクセがある顔がいいな
ハゲでデブでキモメンなのも同じなんだろうな。
あるから何とかなってるけど、
ブスを求めてる訳じゃないんだ…
コネでデビューとか、完璧さより親しみやすさを
優先する芸能界の風潮のおかげか、芸能人から
カリスマ性が失われてきているし、
日本の美の基準も狂って来てる気がする。
実際は人気なんかねーよ。DVDだって売れてないだろ。
見たくて見てる訳じゃなくて、
なんとなく見ちゃうんだよ
ウンコして流す前に便器を覗くように
食事中に便所の話したら飯まずくなるとか掃除当番便所最悪とかいわれるが
どうしようもなく便意に襲われ我慢も限界のときやっとこさみつけた便所は光輝いて見える、そんなもんだ
それぞれ違った概念で、関連性はないと思う
「ブスドル」ってのは単にネタとして人気、「ブサカワ」は万人向けではないがマニア受けする要素がある、もしくは美人ではないが愛嬌があって可愛らしい人のことじゃないか?
俺は前者だけど人を不快にさせない類のブサイクは癒しなんだよ
それがブサカワ
そういった点では藤子まいは救われてると言えるわ
ま、そっちは教養あるお金持ちが支えるんだろうし、一部のマニアが育てるんだろうけど。
究極的に美は主観だから多様性を愛する社会であって欲しいとは思うけど、音楽も身体表現も演技も料理の美味しさもスポーツの上手さも文字の美しさも絵画の技巧も、審美眼を養った上で、多様性や欠けたもの、逸脱したものを愛したいな……
そういう意味では西欧や大陸的な完璧を求める文化の恩恵は少なからず受けてると思うけど、自分が生きるには行き過ぎた完璧主義は気持ち悪いし息苦しいから、やっぱり日本がいいかもw
いいように解釈すると、とある物理学者が言っていた『混沌の中に秩序がある』てのを日本社会や不完全を愛する人は知っていて、見いだそうとしている或いは直感的に見いだしてる、ということにもなるかも……なんて。
ちょっとカルト入るねごめんねw物理学者が実際混沌の中に秩序だったものを発見したりする事例を知った上でたどり着いたものだから一律にカルト扱いしないでね。
「詫び寂び」も間違いじゃない。
半島の底が浅いといわれるのは、そのあたり。
成功例のコピーだけでは面白くないんだよね。
あとは、この記事に対するコメントがあったら是非お願いします!
>管理人さん
実力より人気だよ日本は
上着の前を開けて着たり、帽子をナナメにかぶったりするのもある意味似てると思う。
そういう意味では日本だけの文化じゃないよね。
茶器と比べないで欲しい。あれは完璧だ。茶室と言うのは庭園の延長線上にあり、庭園は自然の延長線上だ。だからあの茶器は完璧だ。でも他の用途に使う時は不完全に見える。
まあ癖のある愛嬌のある顔だね。
「一般的に微妙なラインのものを好きと言える自分」が好きって人も結構いると思う
という感覚が欧米人には理解しがたい、ということが逆に不思議。
何かが足りない。それが愛おしい。
それがそんなに理解不能かなぁ?ごく自然な感覚だと思うのに。
あと別にブスじゃないよね。普通。好感もてる方向で。
全く知らないアイドルでしたが、とても興味深い。彼女の夢が叶うといいな。
美人になったわけじゃないけど、
なんかインパクト薄れちゃったな
ブスドルとして有名だったのは、文中の森三中そっくりのときのお顔だよ
まあ正直それでも、そこら辺にいて何か言われる顔ではないと思うけども。
これは数年経ったあか抜けて奇麗になった後の画像だし
最初出て来た時の衝撃は凄かったよ
ソフマップ効果もあるだろうが
AKBなんかわかりやすい例
整形かもって思える美人より、ナチュラルな感じの方が長い目で見て落ち着く。(可愛ければなお良いが)
見慣れるってのもあるし。
でもどうしても見慣れず違和感持ち続ける顔もあるけど…
好みの問題だけどね。
こういう感覚に基づくものかも知れないな。
本当のブスというのはこんなもんじゃない(´;ω;`)
ただ可愛いだけじゃ業界に沢山いるから、欠点であってもそれをアピールポイントにする、巨乳が流行れば貧乳出すとかそんな感じ
ってやつだな
管理人さん、翻訳有難うございます
>西欧の芸術が「完全」に向かって奮闘したのに対して、侘び寂びは「質素」と「非対称」がともなった「不完全」、「未完成」にこだわった
↑
これは非常に日本的な感性で、しかも中国や韓国には少ない視点
まさに日本が独特であることを強調する感性だと思う
日本人が美しいではなく可愛いを愛するのは、「可愛い」そのものが「美しい」から欠けたものであるからだと思う
欠けたものに対する愛着とは実は一つの「優しさ」なんじゃないかな?
と私は思います
全て白木でさ
神宮のつくりは対照であり、20年ごとに新しくなる
常に古くて常に新しい
こんな完璧なものは他の世界には無いよね
だから一般の地上の者は追いつけない天上のものに追いつこうとか無理なことをしようなどと奢らず、欠損のあるこの世をあるがまま肯定的に愛そうとした
それが日本人の考え方なんじゃない?
ブスドルなんて初めて知った。。
完全を目差した西洋に対し〜ってされると日本が完全を目差してないみたいだ
でも日本は侘び寂びでの完全を目指したよね。
つか不完全なものが侘び寂びなの?装飾を完全に取り払った素朴なものが侘び寂びじゃないの?
関連付けが無理矢理な気がしたな、この記事。
町で歩いてたら、まあそれなりに見れる方じゃないか?
あまりブスって感じはしない
どこまで日本通なんや?
完全なものがあるなら是非とも教えて頂きたいねw
コレに似たものは西洋にもあるだろうに何故この記者は言及しないんだろう
道化師のやってることがヘタウマじゃね?
ピエロ達は簡単なことを大げさに失敗し、難しい事をいとも簡単な事のようにやってみせる
ワビサビとか日本的なものと結びつけ特異なんですよ〜と強調するより、ウチの文化にもあるし一見度外れても見えるが普遍的なものなんだ、とつなげた方が面白いと思うんだが
日本の方が親しんできた。
日本のアイドルは美よりも愛嬌が優先する。
が、西洋にも不完全な美学がないわけではない。
西洋は、ピラミッドみたいな
完全な美を追求してきたが、
後には、サモトラケのニケのような
不完全さを愛でる美学も、ちゃんと育っている。
スポーツとか狭い世界で活躍しているってだけで若い男性や女性をイケメンとか美女扱いするのって本人に失礼だよね
あと西洋では黄金比が美の方式として愛されてるけど
日本人は白銀比の方が美しいと好まれてたり
ぶさ可愛い程度ってブスじゃないよな。なまじ美人よりそういう女に寛大な奴が多いのは、そういうの相手だと男は優越感を抱けて「安心」するからだよ。(ほんとのブスなら見下し全開か存在すら関知しないかじゃね)
歪んでるな
週末ゆっくり休めよ
不完全だから美しいって言うよりも、
彼女のポジティブなキャラクターが美しさに繋がってるんじゃないかな。
判押したように似たような整形顔よりはずっといい
79は病んでると思うけど
要は取れないぶどうは酸っぱいってことだろ
スゲー美人と付き合う妄想して魔法使いになるより
気の合う女と付き合った方が幸せだと思う
ソフマップは良くあんなの見つけてくるなぁ。って子がいるw
だが藤子AKBはブス
歪みすぎて愛でる気持ちもないわ
美しいものをもっと見たい
可愛いじゃないか豚
お前ら豚のおかげでキノコ食べさせて貰ってんだろ
藤子まいは残念な顔(+髪型)でいい体してるから抜ける
だからグラドルなんだよな
ZUNとか竜騎士wwワロタそのとおりかもww
印象派の絵なんて破綻だらけじゃないの。
こいつは俺の守備範囲じゃない。
若干悪寒すら感じる顔だな。
こいつはエロさもない
>関連付けが無理矢理な気がしたな、この記事。
例えば陶芸の世界だと「継ぎ」といって割れた器をつなぎあわせる技法がある
これは単なる修復ではなくて、それ自体が芸術表現とみなされる
普通なら欠けることは道具としても美術品としてもマイナスなはずなのに、むしろそれが味があっていいとそこに美を見出すような文化的土壌がある
だけど
ブス
ではない。
ブスは味があってなかなか飽きない