2010年01月23日

海外の反応 - 王道、『源氏物語』の読まれ方 -

本日は、『源氏物語』でございます。


今更、わたくしなんぞの説明の必要もないかとは思うのですが、『源氏物語』は平安時代中期に成立した長編物語。文献初出は1001年。一説には、世界最古の長編小説とも言われます。

海外での出版は、末松謙澄(1855-1920)(訳注:外交官。のち、逓信大臣、内務大臣などを歴任。ロンドン赴任時に翻訳本を出版)による英訳本が1882年に出されたのが世界初。抄訳であることに加え、翻訳の質が原因であまり注目はされなかったようです。

その後、アーサー・ウェイリー(1889-1966)(訳注:英国の東洋学者)による翻訳本が、1925〜33年にかけて出版されました。これは欧米人に理解しやすいよう、原書にない説明を入れるなどしたため、原作に忠実でないとする批判もあったものの、当時のタイムズ誌が「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と評するなど、欧米で高い評価を得ました。
現在でも在日外国人記者などが、来日前に上司に薦められる書とも言われ、日本を理解する必読の一冊とされているそうです(Wikipedia)。


今日ご紹介する英訳版は、日本学者のエドワード・サイデンステッカー(1921-2007)版。
サイデンステッカーはこれまで最高の日本文学翻訳者とも言われ、川端康成の翻訳を手がけたことで知られています。特に『雪国』の翻訳は、1968年の川端康成のノーベル文学賞受賞に大きく貢献したとされ、川端康成自身から賞金の半分を手渡されているようです。
2006年、日本への永住を決意して来日。翌年に東京で逝去(Wikipedia)。


カスタマー・レビュー、全23件中、
5つ星:17件
4つ星:2件
3つ星:2件
1つ星:2件

82%が4つ星以上の評価です。

この中から、まずは60人中63人が役立つと評価したレビューから。

評価:★★★★★ もっともエレガントな翻訳
サンフランシスコ、米国


『源氏物語』は世界初の小説として名だたる作品ですが、辿った道は険しいものでした。この小説はほぼ1000年前のもの。そのため、私たちが楽しめるようにするまでには、(古文から現代日本語への)日本の翻訳者と英訳者という、2段階の翻訳ステップを踏まねばならなかったのです。

最初の翻訳は、アーサー・ウェイリーによるものです。彼の訳は美しく、今なお多くのファンの心をとらえています。ただ、自由に解説が当てられていたり、ときにおおざっぱな訳もあったりで、はたして原書の中身がどれだけ残っているのか疑問を投げかける人もいました。

最近の翻訳に関しては、2作品がどちらが傑作かという栄誉を競っています。Royall Tylerによる最近の作品は、助けになる脚注や背景解説が挿入されています。また、原書にかなり近いスタイリッシュな用語を使って翻訳している大変な労作です。ただ、同時に、(原書の)紫式部自身の表現方法の多くを訳し出しているせいで、読みづらいこともときとしてあります。

サイデンステッカー版は、正確さにおいて良質な作品です。散文(和歌)は、エレガントで原書に忠実。この本にしばしば出てくる和歌は実際、かなり優れています。
サイデンステッカー版は、忠実な完訳であると同時に、英語版のベストでしょう。Royall Tyler版のようには、式部のスタイリッシュなひねりかたを再現しようとはしていませんが、それゆえに、サイデンステッカーの翻訳は、より読みやすいのです。ただ、脚注を増やしても、邪魔にはならなかったろうにとは思います。

Royall Tylerの仕事には敬意を払いたいですが、私自身はサイデンステッカー版が読んでいて楽しかったです。おそらく、最良の選択は、両方の作品を読むことでしょう(時間があれば、ですが)。好きな場面だけを読み比べてみるのも良いかもしれません。どちらの場合でも、サイデンステッカーの詩はなくてはならない部分です。●



27人中23人が役立つと評価したレビュー。

評価:★★★★★ ただ一言、ファンタスティック

この素晴らしい本は、日本の平安時代の芳醇で魅惑的な世界へと私をいざなってくれたものだ。物語と登場人物において、紫式部の構成力は偉大だ。読み手に、宮廷の男女が織り成す愛と人生における数々の紆余曲折を見せてくれる。サイデンスティッカーは、この翻訳で素晴らしい仕事をした。ウェイリーが適当に流した多くの箇所をカバーし、読者の役に立つ備考を挿入してくれた。この本を一言で言うと、ファンタスティック、それだけだ。●



21人中18人が役立つと評価したレビュー。

評価:★★★★★ 素晴らしい一冊。

最初に『源氏物語』を読み始めたきっかけは、日本の歴史の授業で『源氏物語』について聞き、アジアの芸術の授業で『源氏物語』のイラストについて勉強したこと。読んで、衝撃を受けたのは、次の2点だ。
1) 小説の構成が時間の流れに拠ってないこと。2) 筆とともに、登場人物が成長していくという作者のキャラクター作りの才能。
恋人同士が、このときが千年止まってしまえばいいと願う場面など、信じられないほどに気持ちを掻き立てられる。…ある意味、この本が1000年のときを経ていることを考えれば、まさにそうなったわけだけれど。

物語は、人間の人生のすべてにわたる経験を味あわせてくれるし、一千年の昔の人々も現代の人々もさしてちがいはないのだと悟らせてもくれる。たとえば、とあるエピソードに私は腹がよじれるほど笑った。それは、主人公が望んだ女性に振り向いてもらえず、彼女の飼っている猫だけでもと、なんとか連れ帰ろうとする場面。なんというアホだろう。でも、同時に、これって『フレンズ』(訳注:1994〜2004年にアメリカで放映されたコメディ・ドラマ)にでも出てきそうな場面じゃないか?

実は、この歴史的作品にかなり興味があったにもかかわらず、私にとって最初の3分の1は苦闘だった。でも、本を読み進めるうちに、登場人物の描写や洞察に深みが増していって、読むのをやめられなくなったんだ。読むのが楽しくて、読み終わってしまうのが残念なぐらいだった。

私的には、ウェイリー版よりサイデンスティッカー版を選んだ。なぜって、省略されていないし、原書により忠実に訳されているから。それと、1650年代の版画の挿絵だね。カバーの傷みやすさに触れてる人がいたけど、私は、買ってすぐクリアなシートでカバーをかけたよ。5年経ってるけど新品同様。

唯一の不満は、和歌が翻訳では和歌になってないこと。日本語と英語の言語の差のせいかもしれない。翻訳の問題ではないかな。

私は『源氏物語』を強く薦めるよ。良い本を読みたい人や日本の歴史や文化に少しでも興味がある人になら誰にでも。この本の仕事の忍耐はきっと報われるだろう。●



4人中4人が役立つと評価したレビュー。

評価:★★★★ 光源氏の物語

紫式部による『源氏物語』は、平安時代の恋愛ドラマといったところ。この本は、光源氏の生涯と多くの人間関係を追いかけたものだ。主人公は光源氏だが、多くのサブプロットがあり、源氏が交流する平安時代の宮廷の人々の話も出てくる。

物語の中心となっているのは、源氏の多彩な恋愛関係。源氏は、美しく、教養ある男性であり、多くの女性たちが彼に惹かれる。彼は、何人もの妻をめとり、同時に宮廷内外で他の多くの女性と交際する。宮廷外での恋愛はスキャンダラスであるため、これはこっそりと行われるが、どの恋愛も色合いが異なり、女性たちはそれぞれ個性.をもって源氏に接するのだ。

物語は進むにつれて、ストーリーが次から次へ折り重なり、複雑になっていく。源氏に焦点は当たっているとはいえ、他の多くの登場人物たちがストーリーを作っているからだ。登場人物たちを通じて、あらゆる種類の人間関係が探索されていく。
家族の秘密はあばかれ、結婚問題に巻き込まれた男女は誰にも言わずに子どもをもち、ある女性をめぐって男性同士が火花を散らし、悪霊にとりつかれ死ぬものもいる。ほとんどの場合、メロドラマで観たようなストーリーがここでも繰り広げられるのだ。

この本は、あきらかに大人向けに書かれたものだ。関係の描写は細かいし、文章も、中の和歌も大人向けを意図している。著者は、読者を登場人物に感情移入させようとしているのだろうと思う。主人公の人となりがわかってくると、さまざまな人物との人間関係のゆくえに夢中になってしまうのだ。著者の目論見通りというわけだ。

登場人物に親しみを覚えるようになるまでしばらくかかるが、登場人物間の多彩な人間関係に興味が出てくると、すぐになじめる。いつも、スキャンダラスで予想外の出来事が引き起こされるせいで、読者はストーリーが進むままに読み進めてしまう。

この本を、私は日本の平安時代の文化に興味がある人すべてに薦める。これを読めば、平安時代の人々の暮らしを垣間見ることができる。散文調に書かれてはいるが、難しすぎて理解できないとか読めないといったことはない。メロドラマ風の筋書きも、興味をかきたてつづけてくれるだろう。常に、筋書きの少し先には驚きが隠されているのだから。●



32人中23人が役立つと評価したレビュー。

評価:★★★★★ 紫式部の疑問

『源氏物語』は議論の的だ。世界最初の小説と言う人もいれば、史上最も偉大な作品と言う人もいる。平安時代の情報源としては比類がないとも言われる。ある人にとっては風刺であろうし、またある人にとっては、素晴らしいラブストーリーだろう。これらはすべて、おそらく本当なのだ。読み手の視点や文化、また性別によって、変わるものだろう。

私の場合、素晴らしい自伝小説の1つとして読んだ。紫式部という、本名不詳の女性こそが、この物語の主役だ。源氏自身は、1つの記号なのだ。

紫式部が光源氏、あるいは彼のような男性を愛したのは確かだろう。この本の中には、紫式部がいる。世界の文学の中でも最も素晴らしい閨房文学の1つであり、その中に彼女は、あらゆる場面で手を触れられそうに、生き生きと存在する。強い活力のある人格をもち、情熱的な性質で、自然への素晴らしい感性があり(慣習的な平安時代の人々の態度よりはるかに)、誰かを深く愛しつつも、思いを伝えることはできなかった人。

紫式部について、学者たちはこう言う。なにもわかっていない、と。だが、彼女の著作を読めば、まるで語りかけられるように彼女がわかるし、その力強さは決して忘れられるものではない。

この本は、遥かな時代からきた本だ。時代をくぐり抜け、物語構成、文化、慣習、その作家性まで、学者たちの議論を沸き立たせる。この本を書いたのは誰なのかという疑問など、ホメロスの疑問と同様、「紫式部の疑問」ですらある。
ホメロスという名前は実際には、似た詩の作者にも使える役に立つものだが、これについてなにかを知る必要は私たちにはない。紫式部もまた、知る必要があることはすべて語ってくれているのだ。1000ページを超える、400人の登場人物が出てくる、多くの多くの和歌の入った、この本で。私たちが迷うことはない。

私は、紫式部のこの本が未完であるという考えが好きだ。そうして、どこかで続きの章を今も書いていると想像するのが好きだ。そうして、11世紀の日本でこれほど深く愛を知っていた誰かが、多少なりとも特別な待遇を受けていたかもしれないと考えることが好きなのだ。●



最後は、参考までに、9人中5人が役立つと評価した、1つ星のレビューの、物語に対する不満部分を抜粋してお送りいたします。こちらも、別の意味で興味深いです。


評価:★ これが称賛されているとは、耳を疑う。

ストーリーは、御簾の後ろで隠れて暮らしている女性たちを追いかけるという、平安時代の上流階級の男の好色な冒険譚だ。彼女たちは、姿を見せることもない。これは、ロマンスとしては面白くなりそうな要素なのか?初期の騎士道の物語みたいに?そうでなければ、少なくとも、異文化の人間が他国の人生を窓から眺める楽しみがある?答えは、「ほとんどない」。

物語の基本構成は、誘惑とレイプ話の連続で、それがあまりに長く続くせいで、登場人物が嘆き、死ぬものすらある。少女たち、…まれに女性たちからも、源氏や他の男性たちの社会的地位や美しさにあてられて、自身を差し出すこともあるが、少女たちは男性を見る目をもつだけ成長しているようなのに、決定的に情熱が不足している。

ストーリーはおおざっぱに言えば、同じ筋道を辿る。まず、男が偶然、少女を見かける。とある家で彼女についての噂を耳にする。男は求愛活動を開始。通常は、使いの者に詩を送り届けさせる。少女のほうは気乗りせず、返信のしようがわからない。男はプレッシャーをかける。少女はなおぐずぐずとして、戸惑っている(男の関心にきちんと返信しなかったことに罪悪感を感じながら)。プレッシャーはなお強まり、完全な無理しいになっていく(例としては、男が御簾を押しのけ、着物の袖をつかむ)。そこで、物語は突然、結末へと飛ぶ。人生ってなんてはかないんでしょう…という嘆きになることもしばしば。これの繰り返しだ。

最悪なのは、登場人物の人格が薄っぺらいこと。女性は、日がな一日、囚人のように暮らしていて、これでは成長の余地があまりない。美しいし、琴を弾いたり歌を歌ったりもできるし、良い詩も書けるが、属性としては幅が狭いため、一人一人のキャラクターを際立たせられなくしてる。会話が始まると、名前がほとんど呼び合われないせいで、読んでいて注意が逸れてしまい、集中が難しいのもある。

似た問題として、男性の行動が侮辱的だ。昔のモラルは現代とはちがっているから、こうした古典を読むときは普通、分けて考えねばならない。でも、この本の場合、それがあまりに長く続くので、我慢ができなくなるのだ。
物語中の男性はほとんど例外なくガツガツとしている。源氏を称賛する現代の人々は、モラルの違いを考え合わせているのだろうが、男性たちはちゃんと、(訳注:当時としても)自分たちの行動が自身の評判を傷つけるものだということがわかっているし、少女たちの中には精神的傷を負うものまで出てくる。死をいとわないほどに、だ。

たとえば、物語初期では、源氏は、とある少女と秘密で一夜をともにするが、不幸にも彼女は夜中に死ぬ。もともと源氏は彼女と一夜をともにすることは許されない状況であったため、ここで2つの問題に直面する。1) 少女に仕える者が彼女の死を人々に伝えたがったこと。2) 古典世界での死体遺棄問題(山寺があってよかった!)。彼女に仕える、他の女官たちは、なぜ彼女が死んだのかがわからず、悪夢の中を暮らすことになる。これが、時を越えた不朽のロマンスだって?

源氏の最愛の妻の死に始まる最後の500ページあたりから進行はのろい。残り300ページになって、源氏が死ぬと、物語が良くなる。三人の姉妹たちの物語が描かれ、数人の男たちの成長を追っていくのだ。心理学者は、人間の物事の記憶は、最も緊張したときや最後の瞬間がもっとも強いと論じているが、たぶん、この本に肯定的なレビューを書いた人たちは、最後の数百ページが作品全体の印象に勝っていたのだろう。

この本への称賛を理解する寛大なやり方もある。でも、時を越えた作品の主役であるはずの、この光源氏の現代版を最近、私たちは見ている。このレビューを私は、カリフォルニアで11歳の少女を誘拐し、18年間返さず、2人の子どもまで産ませた男が逮捕された一週間後に書いているのだ。これは、光源氏が最愛の妻にした仕打ちと、面白いほどそっくりではないか。(光源氏は彼女を10歳で誘拐し、自分好みの女性に育てた)。●



この否定的レビューは、長文で熱心かつ生真面目に書かれていて、決して茶化したり、斜に構えたものではございません。最初は、なかなか日本ではお目にかかれないレビューだなあと圧倒されつつ読んでいたのですが、…最後の一段は、うーん。……昨今のアニメやマンガの規制を叫ぶ声の主たちは、こんなふうなかたがたなのかしれないなあと、ちょっと思いました。

『源氏物語』が許せないとなると、いわんやマンガをや、でございます…。



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2009年08月18日

海外の評価『浅草博徒一代』-ボブ・ディランはわかってる-

"Confessions of a Yakuza: A Life in Japan's Underworld"(あるヤクザの告白:日本の闇社会に生きる)。『浅草博徒一代』の英題です。小説というより、ノンフィクションのような売り方ですが、これはこれで多少、的を射てるところもあります。

まずは、『浅草博徒一代』の一部を、少し長くなりますが抜粋します。

当時はモルヒネだろうが何だろうがうるさくなかったから、今みたいにこそこそやらなくても、欲しいと言えば、医者が平気で譲ってくれた時代です。麻薬がうるさくなったのは、戦争に負けて進駐軍が入ってきてからのことで、戦争前は知っている医者がいれば簡単に手に入った。親分もそれでとうとう中毒したんですが、もうだんだん弱ってきたときに、親分は姉さんにこんなことを言ったんだと言う。
「おまえにはいろいろと世話になって、有り難いと思っている。だが俺が死んだら、おめえもまだ若いんだから身の振り方を考えて、幸せになれ。だが俺が生きていればいろいろと助けてもやれるんだが、これからはいままでのようにはいかねえぞ。そのあたりはよおく心得て、みんなの厄介ものにならねえように綺麗にしろよ」
このとき枕もとには二、三人と一緒に亀蔵もいたそうですが、何を言うのかと思っていたら、そんな情けねえことを言うんで、みんな泣き出しちまった。いくらなんでも親分が死んだからといって、姉さんに辛くあたるなんてことは誰も考えもしないことです。姉さんは針仕事が好きで、親分が着るものは全部姉さんが仕立てていましたし、子分たちはみんな一枚二枚は縫ってもらっていたでしょう。



浅草博徒一代―アウトローが見た日本の闇 (新潮文庫) 英文版 浅草博徒一代 - Confessions of a Yakuza: A Life in Japan's Underworld 墨東綺譚 墨東綺譚 [DVD]


『浅草博徒一代』は、明治末期から昭和にかけての日本を生きた一人の博徒が語った回想録の聞き書きあり、女、駆け落ち、博打、服役、戦争といった伊地知栄治の半生が赤裸裸、かつ淡々と語られています。帳尻を合わせて展開を作っているわけでも、伏線があるわけでもなく、そうした意味ではノンフィクションと言えなくもありません。

ですが、上述の抜粋でもおわかりいただけるかと思いますが、物語の背後の世界に、日本の古い時代の感性が息づいていて、これが郷愁をそそるとともに、今となっては美しくすらある。そのうえ、佐賀純一の筆致が大変、上品で平静、決して煽る書き方をしないので、殺伐とした場面や過酷な場面も多々ある割には、『墨東綺譚』的な情緒すら漂っています。

この古い日本の時代の感性が海外の読者に通用するのか。……版元の講談社インターナショナルは通用しないと見切って、ノンフィクションを前面に出した題名に変更した気もいたしますが、……まずは米国アマゾンのカスタマー・レビューからご紹介します。


米国アマゾンのカスタマー・レビューは28件。そのうち、
5つ星:10件
4つ星;9件
3つ星;7件
2つ星:2件


最初は19人中19人が役立つと評価したレビューから。

評価:★★★★ やくざ、我、弾劾す

読了する前に途中で、この本が倍の長さだったら良かったのにと思ってしまう本がある。表向きは、死にいく、引退したやくざの親分の自叙伝であり、彼が彼の主治医に話した物語だ。この本は、面白い方法で(そのへんの手近な話なら必要がない方法だが)、日本の裏社会で暮らすことになった一人の、実に非凡な男の人生を巧みに描いている。

私が非凡と言うのは、一つには、この男が初期の日本の中流階級の家庭に生まれ、将来は「サラリーマン」になるはずだったというのに、その血気盛んな性格から冒険を求め、安楽な生活に背を向けたことだ(たとえその安楽が激務の果てのものだとしてもだ)。また、平均身長が5フィート4インチ(訳注:約162センチ)の社会で6フィート(訳注:約182センチ)あったこと。融通の利かない世界で恐れることなく規律に反抗したことも、その一つだ。それは、彼が日の当たる社会に背を向けた後に、彼を受け入れてくれた闇社会の規律であっても、だ。それからまた、統率するとなると、下の者を彼の規範で抑えこみ、目上の者ですら敬服させてしまう彼の人格もそうだし、なんと言っても、頁をめくっているかのように出来事を回顧する人並みはずれた能力をもつこともそうだ。

このやくざの告白は、工業化時代に転換しつつあった日本の姿でもある。日出ずる国、日本の視線の先に、第二次世界大戦へ続く不吉な影が落ち始めていたちょうどその時代の日本の姿だ。この本の主題は、兵卒から親分へと成り上がっていく、一人のやくざの一生を描くことだが、一方で、同時期の市民たちが、必要最低限の生活や、圧政的で、現状を維持することしか目指すものはない、その場凌ぎの行政の力以外は何も約束されていないまま、搾取的な財閥の労働市場の中で生きる様をも描いている。このやくざの男が語るのは、国の庇護のない世界で生きる一人の市井の男が、彼の不滅の誠実さの見返りとして、彼を守り、養ってくれる裏社会の相互扶助制度の中に安全を求めたということなのだ。

日本には、西欧の文学では知られていない、このようなユーモラスで常軌を逸した悪漢の自叙伝という素晴らしい伝統があり、この本は、その神々しい系譜に加えられた本当に真実、素晴らしい一冊である。
私はこの本を、すぐに読め、かつ読みやすい娯楽というだけでなく、長所も短所も含めて、日本の明治時代後期の美しい心理文化的研究書として薦める。



……物凄いレビューです。『墨東綺譚』(『さくらん』、『陽暉楼』、『吉原炎上』等、ご存知の遊郭物を適宜、入れてください)を観たあとに、「搾取することしか考えていない行政のもと、いかなる庇護も救済もなく、女性蔑視の悲痛な歴史の中を生き抜いていった日本の娼婦たちが……」とか言われたようなポカーンな気分と申せばいいのか………。


次は、11人中11人が役立つと評価したレビュー。

評価:★★★★ 珍しいやくざの人生を垣間みる

これは、ほとんど語られることのない影の世界を覗き見ることができる興味深い本だと私は思う。物語は対話で進められ、著者が洞察を差し挟む形である。ところどころ翻訳が編集されており、逸話がごまかされているが、この作品の全体的な楽しさは損なってはいない。私はこの本を古い時代の日本のマフィアの生活がどんなふうだったか知りたいと思う人に薦める。私は大変楽しんだし、父に貸したぐらいだ。もし日本とその文化が好きなら、この本も好きになれるだろう。Gambatte!



次は、7人中7人が役立つと評価したレビュー。

評価:★★★★ 20世紀初頭の日本の博徒の興味深い物語

柔らかい語り口の本である。日本の真実の生活について読んで楽しみたいという場合に限り、興味を失わずに読むことができるだろう。私のように。物語は最高に淀みなく流れていくというわけではないし、穴も多い(おそらく、この本の下敷きになっている長時間の会話の翻訳のせいだろう)。話はやくざの世界を深く掘り下げてはいないが、その中の過激なメンバーの一人の物語を通じて表層は見せてくれる。人間は悪徳と暴力に興味があるということだ。



…もう明らかに読み方としては、『実話ナックルズ 日本の暗部!』とかのノリ。…と言ったら言い過ぎでしょうか。おそらくもう、海外のかたには、小説としてはまったく切り口がないのでしょう。致し方ない。

実際、この本の物語中の、日本の古い時代の感性の人間ドラマや情緒が伝わらないと、まさに、上記のカスタマー・レビューのように「実録、日本のヤクザ」ってな話でしかないのだろうと思います。


ラヴ・アンド・セフト トゥゲザー・スルー・ライフ(デラックス・エディション)(DVD付) ザ・ベスト・オブ・ボブ・ディラン VOL.2


ここで、蒸し返すようですが、佐賀純一の本から借用した文節が何カ所か入っている、ボブ・ディランの『フローター』から、歌詞を抜粋して、僭越ながら詩心皆無の私が訳してみました。

夏の風が吹いてる
スコールが始まる
どんな風だろうと巻き込まれてしまうこともあるなんて
まったくもってバカな話だ

そう、ここいらにいるオヤジたちは、
若い連中と折り合いが悪くなることもあるさ
けど、年が上だから、どうのこうの、というのは通用しないよ
最後にはたいしたことじゃない

ロミオはジュリエットに言ったよ キミは顔色が悪いな
そんなんじゃあ、若々しさがないよ
ジュリエットは言い返す
そんなに嫌ならさっさと帰りなさい

彼らはみんな、なんとかしてここから出ていった
冷たい雨が体を震わせる
オハイオへ、カンバーランドへ、テネシーへと
残った奴らは、流れに逆らった

オレの邪魔をしようとしたり、前に立ちはだかろうっていうんなら、
お前の命を賭けてやるんだな
オレは口で言うほどあっさりした人間ではないんでね
心の痛みだって争い事だって、オレはもう十分に経験してきたんだ

オレにだってかつては夢も希望もあった。
皆で合わせて踊る円舞
クリスマス・キャロル、あのすべてのクリスマス・イブ
でも、オレの夢と希望は、タバコの葉の下に埋められたままだ

誰かを蹴り出すのは、いつも楽な仕事とは限らない
しばらく待たなきゃならないことだってある
不愉快な仕事になりそうだ
誰かがそんなことはやめてくれっていうこともあるだろうが、
泣きつかれてたって困るんだよ



ボブ・ディラン、やっぱり凄いや、と思いました。アマゾンのカスタマー・レビューを読んだ後だと余計に。
この歌は、愛や失望や争いや様々な場面が連なっていて、まるで『浅草博徒一代』からテーマだけ抜き取って、別の物語を再構築したような歌です。歌詞を読んだとき「これは、アメリカ版伊地知栄治の歌だ」と思ったぐらい。

いや、御大ボブ・ディランに向かって私ごときが言う言葉ではないのは重々承知しております。でも、

ボブ・ディランはわかってる。


どうしてまんま使っちゃったかなあ…。返す返すも、残念な話です。



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2009年08月17日

海外記事 -『浅草博徒一代』- ボブ・ディランが「借用」した小説

まずは、ボブ・ディラン。アメリカを代表するシンガー・ソング・ライター。60年代に反体制派のメッセージ・ソングやプロテスト・ソングの旗手として注目を浴び、数々のヒット曲を世に送り出す。代表曲に、『Blowin' in the Wind(風に吹かれて)』、『Like a Rolling Stone』、『Mr.Tambourine Man(ミスター・タンブリンマン)』、『Knockin' on Heaven's Door(天国への扉)』等。詩人としてノーベル文学賞にノミネートされるなど、20世紀半ば以降の世界文化において極めて重要な位置を占めているアーティスト(Wikipedia)。

ついでに、15日にオーストラリアでの公演前に「売り出し中の家屋の窓から中をのぞいてい」たために、挙動不審で警察に通報されたあげく、「ボブ・ディラン」と名乗ったものの、警察官が若かったため通用せず、連行されたというニュースが流れたばかりでもあります。


ラヴ・アンド・セフト ザ・ベスト・オブ・ボブ・ディラン フリーホイーリン・ボブ・ディラン


かたや、佐賀純一。内科医のかたわら、郷土史をテーマにした作品を発表。著作に『浅草博徒一代』、『歓喜天の謎―秘められた愛欲の系譜』、『藪医竹軒行状記』等。代表作、『浅草博徒一代』は患者であった博徒の伊地知栄治から半生を聞き書きし、伊地知が語る回顧譚という体裁をとった小説です。明治末期に生まれ、昭和の時代まで生きた、古い世代の任侠の男の生き様を静かな語り口で描いたこの作品は、国内で高い評価を得、1991年に海外でも出版されました。


浅草博徒一代―アウトローが見た日本の闇 (新潮文庫) 藪医竹軒行状記 小説 蛭子 (ひるこ) ―古事記 より 英文版 浅草博徒一代 - Confessions of a Yakuza: A Life in Japan's Underworld


この二人の名前が出た時点で、今日の題材は想像がつくかと思いますが、その通りで、ウォール・ストリート・ジャーナル誌掲載のボブ・ティラン盗作問題の記事です。


とは言いつつも、…本当の題目は佐賀純一の『浅草博徒一代』の紹介でして、明日のエントリの前振りとしてご紹介したいと思います。


ボブ・ディラン、佐賀医師から盗用?

東京の北の小さな街に住む62歳の医師であり、作家である佐賀純一は、やはり62歳になるボブ・ディランのことをほとんどなにも知らない。

「ボブ・ディランというのは、とても有名な米国のカントリー歌手ですよね?」。そう佐賀医師は聞き返し、「そういうことはよく知らんのです」と続けた。

一方、ボブ・ディランは佐賀医師の作品に大変に慣れ親しんでいるようだ。この伝説的シンガー・ソング・ライターの最新のスタジオ録音アルバム『ラヴ・アンド・セフト』は佐賀の著作『浅草博徒一代』から数十の文節を盗用していると考えられている。

"I'm not quite as cool or forgiving as I sound"とディランは2001年のこのアルバムの収録曲『フローター』で歌う。一方、佐賀は、日本のヤクザから聞き書きした彼の著作の158頁で"I'm not as cool or as forgiving as I might have sounded"(訳注:日本版では「けれどもわたしは、口で言うほどあっさりした人間ではありませんからね」)と書いている。この著作は、ディランのアルバムのリリースより遡ること10年以上前に出版されたが、評価も売上もほとんどなく、これまでに佐賀がこの本から得た金は8500ドルほどだと言う。

ドリス・カーンズ・グッドウィン(訳注:ピューリッツァー賞(報道、文学、作曲に与えられる米国で最も権威がある賞)受賞、米国の伝記、歴史作家)とスティーブン・アンブロース(訳注:同じく米国の伝記、歴史作家)も近年、似たようなトラブルがあったが、佐賀医師は、盗用された作家たちの多くとは違って、怒ってはいない。彼は喜んでいた。

「ボブ・ディランによろしくお伝えください。このニュースを聞いて、お褒めにあずかったようで、とても嬉しいですよ」。そうこの著者は言い、ディランのファンが本を買ってくれるといいんですけど、と語る。『浅草博徒一代』の英訳版は2万5000部しか売れていないが、日本ではもっと少部数だ。というより、この日本版は絶版なのである。(訳注:復刊されています。)

ディランのマネージャー、ジェフ・ローゼンは、ディランからコメントは出ないと語った。「私が知るかぎり、ディランの作品はオリジナルです」とローゼンは言う。『ラヴ・アンド・セフト』のライナーノーツには、このアルバムの12曲の作者として、ボブ・ディラン1人しか挙げられてはいない。

ディランは、以前から題材を拝借してきた。しばしば聖書や文学から、曲に引用をするのだ。『ラヴ・アンド・セフト』では、『華麗なるギャッツビー』から文節を明らかに引用しているし、そもそも彼のディランという名前は近代の英国の詩人ディラン・トーマスからとったと言われることが多い。ディランはこれを否定してはいるが。

ボストン大学でディランの作品の講義を持つ人文科学教授、クリストファー・リックスは「ディランは、想像力のあるスポンジのようなところがある」と言う。通常、ディランのスポンジは創造の過程の健康的な一部分であり、ティランは数語を借り、ねじり、文脈を変えて、全く新しい芸術作品を創り上げると言うのだ。

だが、リックスは、ディランの最新アルバム『ラヴ・アンド・セフト』でディランが『浅草博徒一代』からの借用した部分の範囲には驚いていた。リックスは言う。「(訳注:盗用されたとされる)部分は、なにげない一節ですが、並べて比べると、極めて衝撃的です」。

とはいえ、佐賀医師以上に驚いたものはいまい。内科医であり、作家であり、画家である佐賀は、東京の北の13万4000人が住む小さな街、土浦で、静かな郊外の生活をしている。彼の家と医院には、濃い緑の庭と踏み石の小道がある。

ここは、彼が、患者であった伊地知栄治という引退した博徒の告白をもとに、『浅草博徒一代』を書いた場所である。物語は、第二次世界大戦前の日本が舞台だ。この本の中の人々はみな、賭け事や、売春、暴力に満ちた、根無し草のような辛い人生を生きている。佐賀は、この本は、不運や辛い暮らしにもかかわらず、愛を見出そうとした人々の話なのだと言う。「テーマは、アウトローの愛と人生なのです。…言い方を換えれば、愛と泥棒(ラヴ・アンド・セフト)です」。

ディランのアルバムに自身が書いた文章がいくつか出てくると聞いて、いつもはオペラがお気に入りだというのに、佐賀はこのアルバムを買った。佐賀はこう言う。「このアルバム、好きですよ。彼の文章は、一つのイメージから次のイメージへと流れて、必ずしも意味があるとは限りません。けれど、素晴らしい雰囲気をもっています」。

佐賀は、ディランが彼の本を読んだことが嬉しいと言う。…もし、実際に彼が本を読み、彼の歌に合うよう言葉をいくつか嵌め込んだのだとしても、訴えるつもりはないという。「悪いことにはなってほしくないんです」。だが、佐賀は、ディランに出典元を認めてほしいとは思っているだろう。おそらく、このアルバムの将来のライナーノーツで、だ。「そうなれば、光栄ですね」。佐賀はそう言う。

このアルバムと佐賀の著作の類似点は最初、日本に住む一人の米国人によって指摘された。彼は先頃、この2作品の比較を、とあるディランの音楽のファンサイトに投稿した。この比較が投稿されるやいなや、『浅草博徒一代』は米国アマゾンのベストセラー・ランキングを2万位以上駆け上がり、4万5000位あたりまで上がった。だが、佐賀の出版社であり、東京、ニューヨーク、ロンドンに事務所を置く講談社インターナショナルは、「騒ぎ直後なので、この論争が売上を大きく後押しするものかどうか判断はつきません」と言っている。

「次の版でボブ・ディランの写真を表紙に使うべきかなとは思っています」。講談社の編集ディレクターであり、『浅草博徒一代』の編集者であるスティーブン・ショウは言う。「写真がだめとしても、少なくとも本の表紙にディランからの推薦文はほしいところですね」。

ショウも、講談社の他のスタッフたちも、ディランが、佐賀の著作に出てくる文章をほとんど変える努力をせずに使ったことに驚いている。「ちょっとばかり怠け者に思えますね」とショウ。だが、大袈裟に騒ぎたくはないようだ。「とっても喜んでいますよ。率直に言って」。

もし、ミネソタ生まれのディランのファン、クリス・ジョンソンが、福岡の書店で『浅草博徒一代』を立ち読みすることがなかったら、ディランの詩神は見つからずに済んでいたかもしれない。ジョンソンは日本の裏社会についてほとんど知識がなかったため、この問題の本を見つけたとき喜んだのである。

最初のページで、ジョンソンはこういう文章を読んだ。「親父は、まるで大名のような格好で座っている」。ここですぐに彼はディランの曲『フローター』を思い出した。"My old man, he's like some feudal lord."

「僕はたぶんあのアルバムを少なくとも百回は聴いています。だから、同じ一節をすぐに思い出せたんですよ」と、29歳の北九州の英語教師は言う。「赤のインクで印刷してたようなもんですね」。

ジョンソンは本を読みながら、アルバムの歌詞を探しはじめた。同じ文章を見つけるたびにページを折った。本を読み終えたときには、その折り目は十数箇所に上っていたのだ。

彼に言わせれば、ディランはこの本の最も詩的で力強い文節を選んでいるわけではない。ときとして、ほとんどランダムに文節を選んでいるようだ、と言う。彼は、ディランが詩を書いた過程についてこう推察している。ディランは、長年、利用している日本のホテルの一室に座り、『浅草博徒一代』を読みながら、彼の新曲を書いていたのだろう。想像力を掻き立てる、その本の一節を使いながら。

彼はこうも言う。「他のアルバムでも、前からこんなふうなことを何度もしてきたんでしょうかね。ずっとこんなことをやってきたのだとしても、誰も長い間、気づかなかったってことでしょう」。●



リンク先には、原文と借用部分の比較が表で掲載されています。読む限り、かなり類似していますし、ほぼまんまのものもありますが、記事中でも言及されているように本当に「何気ない言い回し」を選んでいるとしか思えません。借用部分の日本の該当箇所はこちら↓。

・親父は、まるで大名のような格好で床の間を背に座っている。(新潮文庫版14頁)
・「そんなに心配ならさっさと帰りなさい」(新潮文庫版18頁)
・俺のおっ母さんって人は、馬鹿な女だった。大百姓の家に生まれながら、俺みてえな父無し子を産んで、俺が十一の時に死んじまった。おっ母さんは、そん時まだ二十九だったんだ。おっ父つぁんという人は出入りの小間物問屋だという話だが、会ったことは一度もねえや。(新潮文庫版86頁)
・「ぶちやぶれ!」……(略)最後に灯油を床に流して、導火線を表に引いた。(新潮文庫版92頁)
・やならもう来ねえぜ(新潮文庫版204頁)
・土方がこわくてやくざがつとまるか(新潮文庫版207頁)
・ところがなんだか知らねえが、……(略)年が上だから、どうのこうの、というのは通用しないところです。(新潮文庫版220-222頁)
・けれどもわたしは、口で言うほどあっさりした人間ではありませんからね(新潮文庫版226頁)
・しかし泣きつかれてもこれは困る(新潮文庫版283頁)
・家にいるからといって女房になったわけではなし…(略)私はお勢と一度も寝たことはありません(新潮文庫版321頁)
・伐るのはみんな直径一メートルもある大木です(新潮文庫版374頁)
・この男はじつはあっさりとした奴で、仲間が死んだことなぞぜんぜん意に介していない(新潮文庫版378頁)


ボブ・ディランが『浅草博徒一代』を読んだのは間違いないと思われますが、この剽窃騒ぎはご当人の佐賀純一がディランの借用をむしろ僥倖ととらえたせいもあり、静かに収束しました。
文庫本のあとがきでも、発端であるウォール・ストリート・ジャーナル誌からディランの剽窃のレポートがきた件、BBCをはじめ欧米のマスコミが大挙して取材にきた件、それを契機に復刊した件などを鷹揚に語っておられます。

確かに、ボブ・ディランの「借用」は、ある種の褒め言葉と言えないこともなく、結果としてめでたく復刊も果たしましたし、なによりも、この『浅草博徒一代』という本、ディランが「インスパイア」されただけのことはある一冊でございます。


明日は、『浅草博徒一代』の海外レビューです。



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posted by gyanko at 21:23 | Comment(13) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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