2009年10月24日

五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その3 -

さて、五嶋みどりの1991年のNew York Times紙の記事、第3回です。本日はこちらの曲から↓。
スカラ座でのズービン・メータ指揮、スカラ・フィルハーモニー管弦楽団。プロコフィエフ、バイオリン協奏曲第2番、第三楽章。1993年か1994年(22-23歳)。なにか音楽の神霊がおりてる感じです。

スカラ座:イタリア、ミラノの歌劇場。イタリアオペラ界の最高峰。天井桟敷の客が大変に口うるさいことで有名。ここで手厳しいブーイングを受けて、舞台を降りたオペラ歌手もいるようです。

Midori Goto Prokofiev Conc. 2, mov III


以前の記事はこちら。
五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その1 -
五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その2 -


1982年には(訳注:10〜11歳)、Midoriはジュリアード音楽院のプレカレッジ科(訳注:大学入学前の年齢向けクラス)でディレイに付き、学びはじめていた。かつて母親とそうしたように、膨大な数のレパートリーを全速力で、しかも、すべて暗譜で駆け抜けた。

この時期、彼女は異国であるアメリカ文化に合わせるだけでなく、平日の通常の授業、土曜日のレッスン、毎日の練習、そうして、声がかかりはじめていたコンサートのスケジュールをもこなさねばならなかった。「とても大変でした。音楽学校も初めてだったし、先生についたのも初めて。それに、あんなにたくさんの子供たちがいるところにいたことがなかったから」。そう彼女は不安そうに微笑する。

1983年、彼女の父親(エンジニア)と母が離婚した年、Midoriは彼女の名前から姓を外した。私が父親のことを尋ねると、彼女はこともなげに認めた。「父とは近しい関係だったことはありません。本当に、よく知らないんです」。彼女の家族の激変にもかかわらず、Midoriの青春時代は、窮屈で、時間につねに追われたものではあったが、快適に過ぎていった。Midoriが苗字を嫌がっていたようには見えない。それは単に、メジャーなキャリアへの必要な道だったのだ。そうして、Midoriにとって、メジャーなキャリアはもうすぐ目の前に迫っていた。

1986年7月。タングルウッドのじめじめと暑いその夜。Midoriはレナード・バーンスタイン作曲の「セレナード」を、作曲者自らの指揮によるオーケストラと演奏していた。E線が切れたのは、突然だった。が、Midoriは平然と、コンサートマスターからバイオリンを借りて、演奏を続行する。しかし、再びE線は切れる。彼女は今度はアシスタント・コンサートマスターからバイオリンを借りて、演奏は途切れることなく完奏されたのである。どちらのバイオリンも、彼女自身が使っていたバイオリンより大きなサイズだったというのにだ(訳注:当時、体が小さかったために3/4サイズのバイオリンを使用)。

「終わったとき、観客も、オーケストラも、指揮者も、歓喜の声を上げ、足を踏み鳴らし、口笛を吹いて、拍手喝采だった」とNew York Times紙にジョン・ロックウェルは書いている。この記事は第一面に「14歳の少女、タングルウッドを3台のバイオリンで征服」という見出しで掲載された。Midori自身は、そのときの大騒動に戸惑っていた。「彼女には、この大騒ぎがいったいどうしたことか、わかっていませんでしたね」。Midoriのマネージャーであり、I.C.M. Artist社長、リー・ラモンはそう回想する。(タングルウッドの奇跡のエントリはこちら。)


五嶋みどり タングルウッドの奇跡



I.C.M.は、こうした大衆との繋がりがキャリアを形成していくことを知っていた。だが、次にI.C.M.がとった戦略は驚くべきものだった。タングルウッドの大騒動を利用するのではなく、事務所は逆に後ろに下がったのだ。「我々は、雑誌も、いかなるテレビ局も、どんなラジオ局もすべて断りました」とラモン。「騒ぎがすべて鎮まり、キャリア形成のために、次に来る安定期に備えたのです」。

Midoriの場合、キャリア形成は、注意深く、時間と手間をかけて行なわれた。「手始めは、とってもゆっくりとやりました。1シーズンに8〜10までの契約のみ。すべて、学習プロセスを増やすために選び抜いたものです」とラモンは回顧する。Midoriは「観客との対応のしかた、ステージへのあがりかた、さがりかた。旅のしかた。指揮者とのつきあいかた。オーケストラの聴きかた」を学ばねばならなかったのだ。

初期、Midoriはしばしば地方のオーケストラや夏の音楽祭で演奏した。これは、ほとんど、ニューヨークの人目にMidoriを晒させないためだった。今、彼女は年間約80公演のコンサートで弾く。すべてメジャーなオーケストラであり、メジャーな国際的舞台ばかりだ。

ラモンは言葉を計算しながらMidoriのキャリアについて語っているのかもしれないが、彼女はMidoriの道を指図することに成功していたわけではない。関係者すべてが同意するのは、かなり初期からMidoriは、彼女が出たい公演にだけ出ていたということだ。

この頑固な気質は、反抗期が来てますます高じて、1987年には表面化する。Midoriは15歳でジュリアード音楽院のディレイの元を去る決意をするのである。Midoriによれば、これは、母親もディレイも事務所も、……誰も賛同しない決別だったという。なぜ彼女は、将来的に見ても、これほど痛手の大きい決定をしたのだろうか。

この質問への答えは容易には引き出せない。「どうして私が去ったかですか?去る時期がきたと感じたからです」。Midoriは私たちの最初のインタビューではこう言うだけで、答えなかった。ディレイは擁護的に認める。「彼女が非常に忙しくなったということですよ」。彼女の旅立ちは早すぎたのではないのか?「一般論で言えば、学校を去るのは早かったと言うこともできるでしょう。でも、彼女の場合、他に選択肢があったとは私は思いません」。それはMidoriの決定だったのか?「いえ、彼女の母親の決定だと思います」。ラモンにいたっては、さらに答えは曖昧だった。「ノーコメント。もし本当になぜ彼女がジュリアードを去ったのかが知りたければ、彼女に聞いたほうがいいでしょう」と。



まずはドロシー・ディレイ。ドロシー・ディレイは五嶋みどりを大変に可愛がったようで、みなが受けられるわけではないディレイのレッスンを毎週受けさせたうえに、要人がジュリアード音楽院を視察にくるときなどは、みどりのレッスン予定を必ずその日に変えさせ、演奏を披露できるように調整したようです。まさに特別扱い。
ディレイとの決別は、公演先での手違いから、母親である節がジュリアード音楽院側から「金銭(ホテル代)の不正請求」を疑われたためと言われています。


デビューは11歳。ズービン・メータ指揮のニューク・フィルハーモニック。これもディレイの仲立ちによるもので、初めてみどりの演奏を聴いたときのことをメータは「あの子はなかば天才、なかば怪物だった」と語っています。「じっと下を向いて音楽に打ち込むこの小さな女の子は、クラシックの演奏曲目で最も難しい曲の1つであるバルトークの協奏曲にまるで虎のように食いついていった。伴奏者がリズムをまちがえると、それを直したほどだった。誰もがびっくり仰天していた」。


レナード・バーンスタインとの共演は、1985年の広島平和コンサートのプロモーターによってバーンスタイン側にみどりの起用が打診されたことが縁。

バイオリンの弦を張り直すのは1分程度の時間でできるそうですが、タングルウッド音楽祭の夜は大変な蒸し暑さで、奇しくもオーケストラ員全員が上着なしで演奏することが決定していました。
そのため、いつもはコンサート・マスターのジャケットのポケットに入っているはずの弦がなく、これが不運を呼び、同時に幸運をも呼ぶ結果となったわけです(『母と神童』)。



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2009年10月17日

五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その2 -

五嶋みどり、New York Time紙の1991年3月の記事、第2回目です。本日はまずはこちらから↓。

↓サラサーテのカルメン幻想曲。17歳。小沢征爾の指揮のボストン交響楽団。演奏後、客席のレナード・バーンスタインが感心したように首を振ってから、投げキッスをしてます。

Midori plays Carmen-Fantasie (Sarasate)



みどりの家族、…母、義父、そしてまだ赤ちゃんの弟はつい最近、この2世帯住宅に引っ越してきたばかりだ。荷解きの時間もなかったために、家の中は片付いていない。だが、荷解きが済んでいようとなかろうと、この家族がつつましやかなのはすぐに感じとれる。アンティークも、高価な収集品も、みどりの国際的な名声を見せつける品もない。(年70万ドル(訳注:1991年当時で約8750万円)とも言われるみどりの収入をほのめかすものもない。)

みどりは私を2階の彼女のスタジオへと案内してくれた。小さな防音の部屋、ステレオと譜面台以外はほとんど何もない。ここで彼女は何時間も、誰にも邪魔されずに練習をするのだ。

ここで、彼女は、私に子供時代の話をしてくれた。1971年に大阪で生まれたみどりは、母親のバイオリンの音を聞きながら育った。五嶋節は、今40代だが、日本にいた頃は、教師であり、室内楽の演奏家であり、そうしてオーケストラのコンサートミストレスだった。

節は言葉の障壁を理由に、私のインタビューを今回、丁重に辞退してきたのだが、1987年のインタビューでは、みどりが2歳だった頃のことをこう回想している。「私のリハーサル中は、みどりをよく観客席の前列で眠らせていたのですが、ある日、みどりがバッハの協奏曲を口ずさんでいるのを聞きました。2日前に私が練習していた部分をそのまんまです」。3歳の誕生日に、みどりは、6分の1サイズのバイオリンをプレゼントされ、それからレッスンの日々が始まったのである。

みどりは、最初の頃のレッスンをほとんど覚えていない。だが、2歳半になる彼女の弟、龍が1日に2度、3分の1サイズのバイオリンで練習するひたむきな風景を見れば、当時こんな練習をしていたにちがいないことはわかる。「母は働いていたので、私は自分で練習していたんです」とみどりは言う。「母が帰ってきて、料理を作っているときは、キッチンで練習してました」。そうやって、みどりは、バッハ、パガニーニからバルトークまでの膨大な量の標準的レパートリーを学び、覚えていった。

みどりが8歳のとき、ドロシー・ディレイに渡りのつく節の友人のために、1本のテープが作られた。ディレイといえば、アメリカを代表するバイオリン教育者であり、イツァーク・パールマン(訳注:20世紀の最も偉大なバイオリニストと言われる)、シュロモ・ミンツ(イスラエル人バイオリニスト)、チョーリャン・リン(訳注:台湾人バイオリニスト。五嶋龍の師)をはじめ、数えきれないほどの演奏家を育ててきた人物である。ディレイは、このテープを聴き、「これは、まさに桁外れ」と賞賛し、すぐにみどりをアスペンの音楽祭に招く。1981年のことである。


アスペン音楽祭:6月〜8月の9週間に及ぶクラシック音楽祭と若手の練習合宿を兼ねたようなもの。オーケストラ、オペラ、室内楽のコンサート以外にも、講義やディスカッション、クラス別に分かれた練習プログラム等が用意され、世界40ヶ国に及ぶ国々から、将来を嘱望される700人以上の若い音楽家が集まる。
また、富裕層が別荘をもつ避暑地でもあり、若い音楽家がスポンサーやパトロンを探すのにも絶好のロケーションをもつ。

この夏、ピンカス・ズーカーマン(訳注:イスラエル人バイオリニスト。オタワ国立芸術センター管弦楽団、音楽監督)はアスペンでパブリック・マスター・クラスをうけもっていた。みどりの登場を彼は、まざまざと思い出しながらこう語る。

「当時まだ10歳にもなっていなかったあの小さな子がきたとき、私は椅子にすわっていたんです。彼女の身長は椅子にすわった私ぐらいしかありませんでした。バイオインを調律してから、観客に向かっておじきをして、私にもおじぎをして、それから、ピアニストにもおじぎをしましたね。……そうして、バルトークの協奏曲を弾いたんです。私はもう気が狂いそうになりました。椅子にすわったまま、涙を頬に伝わせていた。私が「他になにか弾ける?」と聞くと、通訳を通じて、みどりが「はい。パガニーニの協奏曲。ソーレのカデンツァ」って言うんです。10歳にもならないのに、時代を問わず、この全宇宙でほんの数人しか弾けないソーレ・カデンツァをもう弾ける!私はこのことは、永遠に語りつづけると思いますよ。それと、みどりは半分サイズのとても小さなバイオリンを使っていたんですが、そこから出てくる音といったらね、……もうありえませんでしたね。まさに呆然です。私は観客に向き直って、こう言いました。「レディース&ジェントルメン、みなさんがどう思ったかは知りませんが、私は今、奇跡を目撃したんです」。

この手の奇跡は、バイオリン演奏の歴史では以前にも起こったことではある。ヤッシャ・ハイフェッツ(訳注:ユダヤ人バイオリニスト。バイオリニストの王と呼ばれる)は3歳で父にバイオリンを習いはじめ、5歳で人前で演奏をし、16歳でカーネギー・ホールでデビューを果たした。ユーディ・メニューインは5歳でバイオリンを始め、7歳で人前で演奏、10歳のときニューヨークでデビューした。

これほどの超自然的な能力をどうしたらつかめ、そうしてまた、これほどのものを育てるには、どんな材料が必要だというのか。ズーカーマンは質問には答えなかった。「言えるのは、この宇宙が一体、どうやってこういう人々を産み出しているのか。なにがハイフェッツやミルシテイン(訳注:ユダヤ人バイオリニスト)を創り出したのかって思いだけです。彼らは、子供のときから、みどりのように弾いていたんですよ。驚異ですよ」。

ドロシー・ディレイは、驚異という意味ではこれをあまり語りたがらない。「早熟というのは、あらゆるケースにおいて、遺伝的形質とは関係がなく、子供の心を汲み取る親との密接な関係が重要だと思います」。みどりの場合、母と娘の関係が並外れて親密であることは周囲がみな認めるところだ。本当に密接。実際、ディレイはこう言う。「ほとんど一心同体です。弾きたいという欲求のどれぐらいがみどりから生まれ、どれぐらいが母親から生まれているのか、私にもわからない」。



子供の心を汲み取るということでは、五嶋みどりが摂食障害で長期入院した際の逸話があります。

天才バイオリニストの五嶋みどりのために組まれた医療チームが「みどりからバイオリンを離してはいけない」と治療方針を定めて、わざわざ練習用の特別室まで準備するのですが、節はこれに「そんなはずはない。もう一度聞いて、それでもやりたいと言うならバイオリンをもっていく」と答えます。その通り、再度の問診で、みどりはバイオリンを拒みます。

医療チームはその後、音楽のテープを聴かせようと促しますが、これも節が「今聴きたいと思うはずがない。あと数週間したら言うでしょう」と断り、これもその言葉通り、数週間後になってやっと、五嶋みどりはテープが聴きたいと自分から言い出します。


後年、五嶋みどり自身は、この頃のころを「もう悩むとかじゃなくて、わけがわからない。でも、いつも、悲しいを超して悲しい。悲しみがいつも回転してるんです。ずーっとわけがわからないんだけれども、暗い、ずっと暗い。自分に悪いことばっかりしたくなるんです」(『母と神童』)と語っています。



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2009年10月10日

五嶋みどり -ニューヨーク・タイムズ紙、1991年の記事 その1 -

今週月曜にお送りしたエントリで予告していた五嶋みどりの、今から約18年前のNew York Time紙の記事です。毎週土曜日にあげることにいたしました。……興味のないかたもおられるだろうなあとは思うのですが、4〜5週ほどおつきあいいただければ幸いです。

まずは、前菜にこちらを。

↓パガニーニのカプリース1、4、5番。17歳のときの演奏。素晴らしいです。

8歳でジュリアード音楽院に入学する際、アスペン音楽祭(米国アスペンで行なわれる大規模な音楽祭。世界の著名音楽家が集まる)に招かれて受けたオーディションで完奏し、ドロシー・ディレイをはじめ、並みいる審査員を驚愕させた1曲も、パガニーニのカプリース(このときは17番とバッハのシャコンヌ)。原田幸一郎(バイオリニスト。桐朋学園大学音楽学部副部長。ドロシー・ディレイに師事)によれば、このとき、まだ五嶋みどりを知る人はなく、あまりのことにアスペン中が大騒動になったそうです。

Midori Goto - Paganini Caprice No.(1/4/5)



それでは、カプリースを聴きつつ、第一回でございます。1991年、五嶋みどり、19歳のときの記事です。


グリッサンド:滑るように急速に…

ニューヨークはカーネギー・ホールでのデビュー・リサイタルの翌日。Midoriと私はアッパー・ウエストサイドのカフェに、コンサート後の虚脱感に包まれながらすわっていた。年期の入った著名音楽家としての冷静なプロ意識を漂わせつつ、Midoriは「とても幸せ」だとは言ったが、こうも語った。「いくつか直したい箇所があるんです。ヨーロッパでも同じプログラムをやることになってるから」。
だが、私がなにげなく昨日の観客の中に、彼女の同志である大勢のバイオリニストがいたことを口にすると、ふと動きを止めた。チョコレート・ケーキにフォークを突き刺したまま。見れば、訓練されたいつもの落ち着きが失われている。「誰がいました?」そう聞きたがり、声の抑揚が上がる。「誰がいたか知りたいんです!だって、コンサートの後、お客様誰にも会えなかったから。誰が来ていたのかなにも知らない。誰にお会いになりました?」

彼女の弾け飛んだような反応に、最初、私は驚いたのだが、やがて、それが彼女の人格のあらゆる部分で対立する洗練と天真爛漫さがなせるわざと悟った。ここにいるのは、あのカーネギー・ホールを満杯にしたばかりのバイオリニストだが、一方で彼女は観客の中に誰がいたかも、彼女の才能がどのように賞賛されていたかも知らないのだ。
彼女がもっているのは1735年製のグァルネリである。家ではポップ・ミュージックなど聴きはしないだろう。が、そんな彼女でも、どんな食べ物より好きなのはデザートなのだ。そんふうに、Midoriは、ある瞬間、鋭い洞察力を見せながら、次の瞬間には驚くほどの純真さを見せてくる。



↓カーネギー・ホールでのリサイタルのときの映像。曲はモーリス・ラヴェルの『ツィガーヌ』(0:26あたりから。難曲中の難曲)。…技巧を魅せるために選んだ1曲だろうと思います。さすがに、曲名(ロマの意)が示すところの妖艶な烈しさはありませんが、慎重にあぶなげなく弾きこなしています。演奏後のスタンディング・オベーションがすごい。歓声がこだましてますな。

カーネギー・ホールは、かつてのニューヨーク・フィルのホームであり、米国が誇る音楽の殿堂。アルトゥール・ルービンシュタイン(ポーランド人ピアニスト。20世紀の代表的なピアニストの1人)がカーネギー・ホールまでの道順を道端の人に尋ねたところ、「練習して練習して、さらに練習すれば行ける」と答えられたという逸話があります(Wikipedia)。

Carnegie Hall ♥'s Midori 五嶋みどり


この動画のコメントには、「19歳でカーネギー・ホールで演奏だって?Wow、国中の本当に多くのバイオリニストが願う、まさにただ1つの夢だろうに…」、「Wow、19歳の誕生日をカーネギー・ホールで演奏して過ごすなんて。こんなことを経験できる人が世界にどれだけいるのか…」といったコメントがついていました。(19歳のときですが、これは誕生日ではありません。)


昨年、Midoriは間違いなく急成長を遂げた。1989年10月にカーネギー・ホールでオーケストラ・デビューを果たし、18歳の誕生日を祝ったとき、彼女はまるで小さな子供のようにすら見えた。5フィート(約152.4センチ)を超えたばかりの身長、体重は辛うじて90ポンド(約40キロ)。繊細な磁器のような容貌から、彼女は今にもこわれそうな弱々しい印象を放っていたものだ。しかし、ひとたびバイオリンの弦に触れると、大変貌が起こり、バルトークのバイオリン協奏曲第1番をホール中に響かせた。そこに子供などいなかった。Midoriはそのとき、まごうことなきアーティストだった。彼女の年齢などはるかに超える達人的な技巧と音楽への洞察をもつ芸術家だったのである。

1年後、今度はデビュー・リサイタルを開催した、この若い女性は、永遠に子供時代をどこかに置き忘れたかのように思えた。冷静沈着、自信に満ち、カーネギー・ホールの舞台へと進み出た瞬間から、人々の注目を一身に集める。そうして、彼女と、ピアニストのロバート・マグドナルド(訳注:五嶋みどりの長年の伴奏パートナー)がモーツァルトのソナタを奏ではじめると、その芸術的成熟度は、いましがた目にした冷静沈着さとなにも矛盾はない。人格と音楽性の不一致は、過去の遺物に見える。

だが、Midoriと話して過ごしていると、いまだに彼女にはまだまだ成長する余白がたくさんあるとわかる。音楽的にも人格的にもだ。しかも、彼女の場合、大衆に見つめられながら大人になるなどという、誰もうらやましがらない、厄介な仕事を経験しねばならないのだ。これからの数年を彼女はどうやってしのぐのであろうか。舞台上でも、舞台を降りた場所でも、その数年こそが、これからの彼女の数十年のキャリアの道筋を決定づけることだろう。

ここ最近、バイオリンの神童はいなかったという記憶が、Midoriを縛る一方で、大衆の興味を掻き立てている。とはいえ、大衆の移り気は悪名高いものだ。特別、神童相手となると。我々は、自然の突然変異のようなもの、つまり神童が見せる大人の表現という一面に釘付けになりつつも、音楽的才能の裏側に隠れる暗黒面を見てなるほどと納得してしまう。当て推量で、こうした神童は、ねじくれた不幸な人生を送り、押し付けがましい両親によって演奏することを強要されて、普通のいたずらな子供時代をすべて奪われているのだと想像してしまう。そうして、いずれ彼らがつまづき、我々の畏敬の念が、同情という、はるかに扱いやすい感情に変わるのを待ち望む…。

しかし、Midoriはつまづきはしていないし、彼女の最近の米国ツアーの輝かしいばかりの批評が示すように、つまづく気配もない。彼女の子供時代はバイオリン一筋のものではあったが、決して不幸せなものではなかったのだ。Midoriは、バイオリンを奏くことはいつも自分がやりたいことだったと強調する。親の無理強いは必要なかった。「バイオリンをやれと強制はされませんでした。母はただ、教えてくれただけです、私が習いたかったから」。母、五嶋節は最初のバイオリンの師だが、こんにちもMidoriのコーチであり、親友ですらある。



最後の一節は、母である五嶋節をかばっているのかなあ…と少しうがったことを考えつつ読んでいました。実際は、五嶋節本人が「虐待だった」と後年、後悔をこめて認めるほどの、子供であることを許さない厳しいバイオリン教育だったようです。

指の痛みを訴えても続けさせ、できないと叩く蹴るの体罰を与える。一切の妥協を許さず、4歳で楽譜を読めるようにし、子供には追いつかない解釈や表現も、小説や物語を参考にさせ、大人も舌を巻くほどの感情表現を身につけさせる。(……正直、そうでもしなければ、6歳でパガニーニなぞありえんと思います。)

一方で、バイオリンだけに集中させるため、荷物ももたせず、食事も節が食べさせてやるという徹底ぶり。厳罰と過保護が両立するかのような濃密な親子関係は、五嶋みどりを母親しか目に入らない子供にしていきます。

やがて、渡米。…渡米にあたって、五嶋みどりは、節が「自分のために人生を投げた」ことに罪悪感を覚え、「私がしっかりしなければ大変なことになる」と思ったと当時を振り返っています。8歳の子供とは思えぬ精神構造です。


この記事で言及している、五嶋みどりの「早熟な大人の冷静さ」と「本来の年相応な無邪気さ」の相反は、おそらくこうした幼少期からの、本人も意識していない重圧によるものなのだろうと思います。そうして、これはやがて、10代での拒食症の発症、入院という経緯へと繋がっていきます…(このインタビューの頃はまだ闘病中ではないかと思います)。

再生のきっかけとなったのは、先日、お伝えした『タングルウッドの奇跡』でした。14歳のときの出来事が数年後、米国の英語の教科書に掲載され、全米の子供たちからファンレターが届くようになります。五嶋みどりは、これがきっかけとなって子供たちへ音楽の楽しさを提供することを決意し、そこからボランティアを通じた自己の確立へと歩き出すわけです。

↓動画中にもありましたが、最近の写真。すごく良い写真です。
midori.jpg


……語弊のある言い方ですが、音楽でも文学でも美術でも、アーティストとしてのこぼれるほどの才能と引き換えに、一人の人間として苦しんだ人々が創り出すものを楽しんでいると考えると、…芸術というのは残酷なものかもわかりませんなあ…。


<補記>五嶋節を鬼であるかのような書き方をしてしまいましたが、良い悪いは議論のしどころとしても、楽しみとしての音楽ではなく、「音楽家を育てる」ための音楽教育としては珍しくはないことなのかもしれません。辻久子も、父親による厳格なスパルタ式バイオリン教育のために、学校に通わせてもらえなかったという有名な話があります。



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