では、続き。
脱工業化世代の若者の美学 (1):『AKIRA』、あるいはダイナミックな幻滅
市場の分割、製品の開発、効率的な製造、検閲の欠如、そして、普遍的テーマを取り扱っていることと、十代の心に訴えること。こうした説明だけでは、マンガの世界的成功を説明するにはまだ足りない。
マンガがいつ世界的なものになったか、また西欧市場で成功しているマンガのテーマやキャラクターたちをきちんと考えれば、おのずと、人々が満たされない文化的需要に直面していたことに気づく。
戦後日本の大衆の想像力を育てた、類を見ない歴史的経験。それがいかにして世界に通じるものとなったのか? あるいは、もっと正確に、日本はどうやって、脱工業化資本主義(訳注:資本主義社会の中心が、工業から情報や知識、サービスに移った状態)のただ中にあった先進国の『世界的普遍性』に近づいたのか?
ここで、私は簡潔に、世紀の変わり目で興ったマンガの世界的成功を3つの意義深いテーマで考えようと思う。それは、黙示録、科学、そして個人だ。
近代マンガは広島の戦火の中で産まれた。白石さや(訳注:東京大学、比較教育学、教授)はこれを『原体験』と読んでいる(注17。その物語はこうだ。生き残った孤児たちの一群が、友情と生きる意志で結束し、不屈の希望をもって、黙示録(大戦)後の世界で闘い抜き、新しい夜明けが訪れるのを待つ。
注17)白石さや著。『Doraemon goes to Asia』(ドラえもん、アジアへ行く)T. Shiraishi and P. Katzenstein(編集), Network Power, Japan and Asia, Cornell Universiy Press, 1997
こうしたトラウマ的な物語の型は、マンガやアニメの中で無数の形で繰り返されてきた。初期の例としては、中沢啓治の『はだしのゲン
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このマンガは1980年代に海外に紹介されたが、戦後の長い好景気に湧き、自身を世界の盟主と自認していた西欧では、ほとんど成功を収めることができなかった。もっと深く言えば、ユダヤ/キリスト教世界においては、黙示録(大戦)は、人間が介入できる何かではなく、神のなせるわざだったのである。『はだしのゲン』を翻訳しようとする試みはすべて、惨憺たる結果に終わった(注18。
注18)ボランティアによる翻訳が米国の平和主義者グループ、プロジェクト・ゲンによって試みられたが、たった2巻で頓挫した。(訳注:米国ではなく、日本のグループではないかと思うのですが)。同様の試みは、フランスでは出版社、Les Humanoides Associésによって1983年に、イギリスではペンギン・ブックスによって1989年になされた(が、完訳に至っていない)。フランス語訳はついにVertige Graphics(2003-7)によって完成。英語訳の完全版は目下進行中である。
1980年代のうちに、マンガ家の新しい世代が台頭するにつれて、日本の黙示録後のマンガはその性格を変えた。50年代に生まれた最後のベビー・ブーマーたちは、『AKIRA』の作者にちなんで『大友世代』と呼ぶこともできる。
彼らの体験は、前世代とは劇的に異なっている。戦争の直接的な記憶をもたず、親たちは戦争について語りたがらない。彼らは60年代の社会的かつ政治的な激変(訳注:安保闘争。日米安全保障条約をめぐる大規模な反戦運動)をほとんど知らず、戦後の日本再興の困難など彼らにはほとんど影響を与えてはいない。
彼らの青春時代の最も鮮やかな記憶は、1968年の運動(訳注:70年安保。日米安保条約の延長に反対した学生を中心とする運動)だったが、これは彼らの兄の世代によって先導され、完膚なきまでの敗北に終わった。
↓70年安保闘争の記録
そのころフランスでは、1968年(訳注:五月革命。自由と平等と自治を求めた大衆の反体制運動)の過激派が、すぐにでも社会を決定的に変革できるのだと信じ切っていた。五月革命よりずっとはるかに暴力的で、長く続いた日本の運動が現状を変えることなどできず、血まみれの自爆に帰結したというのに、だ。
大友世代は、中沢啓治の世代とは、原体験の解釈が異なる。大友の場合は、黙示録(大戦)後の世界は無意味であり、ヒーローたちは混沌の中をさまよい、確実なことなど何もなく、善悪の区別は曖昧であり、そして結末に、より良い世界への希望などない。
この変質の原型は、大友克洋の『AKIRA
金田の暴走族チームを含めて、グループは完全に壊れており、友情の絆は裏切られていく。星を破壊するほどの力をもつ殺人ミュータントである鉄雄だが、奥底では、彼を棄てた母親の腕にすがりつくことを夢見るかわいそうな子供でしかない。
未熟な金田は、潜在意識でこれと同じ夢を見ている。これは、プレッシャーをかけられると、より強く、より頭脳明晰になる女性たちとの関係で判断できる。つまり、若いケイ、ピグマリオンのミヤコ、あるいはゲリラたちの理想の母親、チヨコとの関係だ。
ミヤコが率いる宗教団をはじめ、世界を再建しようとするすべての試みは無惨にも失敗に帰し、大東京帝国からの国際コミュニティへの最後の挑戦的言葉もティーンエイジャーの浮かれ騒ぎのように見える。最終ページにいたってもなお、世界の再生はただの夢に過ぎないのだ。
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『AKIRA』は、フランスのコミック市場の扉をこじ開けたマンガである。理由の1つはおそらく偶然だ。『AKIRA』は『UFOロボ グレンダイザー
しかし、偶然とはいえ、『AKIRA』は人々に思った以上に深くアピールすることになった。『AKIRA』の中の失望が、フランスのグレンダイザー世代に深い共感を呼び覚ましたのである。
60年代後半に生まれた、この子供たちは懐疑と失望の中で大人になっていた。楽園はすでになく、共産主義の夢は霧散していた。フランソワ・ミッテラン(1981-95)(訳注:フランス大統領)の社会党政権は多くの希望を掲げはしたが、結局はそれを粉々に打ち砕いただけだった。
戦後経済の好景気は遠い思い出でしかなく、グローバリゼーション(訳注:国や地域を超えた、世界規模の共通項のようなもの)の波はヨーローパを不安に陥れはじめていた。メディアや知識層は、ポストモダニズム(訳注:構築された近代から脱して、次の新しいフェイズに移ろうとする動き)の奴隷となり、すなわちそれは、確実なことはなにもないという確実性の終焉を意味していた。
さらに言えば、1989年に、60年代世代の最後の反体制的、理想郷であった雑誌『週刊Pilote』がついに死に絶えた。そのころまだ中堅出版社で、マンガを次の10年の中心に押し上げようとしていたGlenatが『AKIRA』をフランスで立ち上げようと準備をしていたのは、ちょうどそのときだったのだ。『週刊Pilote』に象徴されるベビーブーマー世代のコミック・ファンは、こうして『冷笑世代』に席を譲ることとなる。
ここで言及されている『冷笑世代』というのは、日本だと『しらけ世代』に当たるようです。
Wikipediaで見てみたら、この『しらけ世代』、ネーミングはやる気の無さが目一杯漂ってますが、大友克洋をはじめ、マンガやアニメ、ライトノベルが好きな方なら、一度はその作品を読んだり、見たり、遊んだことがある「知ってて当然。一般教養」と言ってもいいぐらいのかたがたばかり。
鳥山明
こりゃ、すごいわー…。
次回もまたしても、この続きです。そろそろ終盤戦です。
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